第10話「99999体とひとり」

 9年前、私は15歳だった。あの日は山奥の道場。木目の壁に、白色の仮面が列を乱さず掛けられていた。

「もう来るな」
 仮面を着けた老女の師範がそう言った。
「な、なぜですか」
「意味がない」
 道場の中はとても静かだった。人里離れた山奥、道場には二人しかいない。

 私たちはアビリティを制御するためにこの道場を頼った。組織を抜け出した先に、安寧の日々は待っていなかった。
 私はとても不安定だった。そうして、グチャグチャにかき回されていく思考をよそにあの刃が現れる。刃は部屋の壁を、クローゼットを、中古の絨毯を、小さなテーブルを切り裂いた。
 私たちは医療、魔術、その他色々あらゆるものにすがった。その旅の果てがここだった。

「我らが流派は我欲、己を消してこそ真の力を引き出す」
「はい」
「貴様の獣は消えぬ」
 仮面越しというのに、彼女の機械じみた、抑揚のない声は鋭くはっきりと聞こえた。ぼんやりと予感していたことが、彼女の言葉で確固とした輪郭を与えられる。

「じゃあ、私は、私はどうすればいいんですか」
「永久我欲の首を落とせ。湧き出る獣をその都度殺せ」
 彼女は淡白な、ただそこにあるだけの結論を述べる。

「耐えられぬなら他を殺し畜生に堕ちるのみ。貴様が決めろ」
 何かが、私の首を少しずつ絞めているように息苦しい。
 答えなんて決まっていた。イチシのいる世界で生きるのなら答えは一つしかなかった。でも、それは苦しい。私を否定して否定して、湧き出る獣の軍勢と永遠に戦う定めを受け入れる勇気を、私は持っていなかった。光は遠くへ去る。闇が私に近づいてくる。

 道場の扉が開いた。
 暗い床の色が光に照らされて、オレンジ色にさえ見えた。
「こんにちは! あ、まだ話してた? ごめんなさい!」
 イチシだ。
 からりと晴れた笑顔で頭を勢いよく下げて、上げて、扉を閉じた。

「去れ」
 師範の言葉が私を押した。私はイチシの後を追って、靴も履かずに道場を出た。

「あ、もう話は大丈夫?」
 イチシは道場の入り口、古びたオートバイと一緒に私を待っていた。

「うん。ねえ兄さん、師範がね、もうここに通わなくていいって」
「えっ?」
「私なおったの。兄さん、私、大丈夫になったのよ」

 イチシは大きな目をこれでもかと開いて、そして、私を力強く抱きしめた。彼の腕にはたくさんの傷跡が這っていた。
 このとき、私は決めた。終生の戦いに身を投じることを。獣はきっと蛇の形をしている。私に噛み付いて毒を流し込む獣、首に絡みついて呼吸を奪う獣、冷たい獣。
 私は蛇の群れを殺し続ける。私が死ぬそのときまで。

     ◇

 そうして、あの4年前。私は20歳になった。彼は22歳だった。
 あの日は、ガレージで行われていたパーティ。テーブルが所狭しと並んでいて、料理がふんだんに用意されていた。手作りの飾りにCDカセットの流行歌。楽しそうにお喋りをしている大人たちに、大人たちの間をすり抜け走る子どもたち。
 私はイチシに呼ばれて、彼の仕事場のパーティに来たのだ。

 あの頃、私たちはそれぞれの仕事を持っていたけれど、同じアパートの一室に住んでいた。生活は穏やかだった。
 私のアビリティが暴走することはない。道場を出て5年が経っていた。髪の赤紫は消えなかった。切っても伸びるあの刃たちはシニヨンに纏めて髪の中にしまっていた。

 皆気さくで、度々声をかけてくれた。

「貴方が彼の妹?」「はい」「彼、とても優秀よ。誰に対しても優しいし、アドバイスも分かりやすい。お家でもそんな感じなの?お皿洗いとか率先してやる感じ?」「はい。とっても頼り甲斐があります」「いいなあ!私もああいう旦那が欲しかったな!」

「そのワイン煮、美味しいだろう。なんと、私が作ったんです」「本当ですか?料理人の方が作ったのかと」「フフ。私はしがない、工場勤めの料理人ということだ」「本当に美味しいです」「ありがとう、楽しんで」

 イチシは仕事の都合で遠くへ引っ越すことになった。私は着いていかないことにした。

「君、何か好きな曲はある?」「あ、あるにはありますが」「歌ってしんぜましょう。僕は歌に自信があるのです」
「嬢ちゃん、やめときな!そいつ死ぬほど歌ヘタクソなんだよ!」
「へんな当てつけはやめてほしいな。大丈夫。聞けばわかるよ、聞けば」「き、聞いてみます」「やめろやめろ、歯軋りの大合唱の方がマシってモンだよ!」

 人々の笑い声と話し声。
 2、3個テーブルの向こうを見ると、イチシもたくさんの人に囲まれ大笑いしているのが見えた。

 ふと、イチシは大柄の男を連れてこちらへやってくる。彼の顔は赤い。もう何杯も飲んだのだろう。
「こんちは」「こ、こんにちは」「こいつ俺の後輩! コジョウっていうんだよ」「コジョウといいます。よろしく」「ヒガンです」
 彼のことは知っていた。よく話題に上がるのだ。

「こいつと俺で、遠くの仕事場に行くことになったんだよ」「そうだったんだ」
「ああ!俺たちタッグでいい仕事をするってワンセットよ」「俺はライバルと思っているんスが」
「ふふ、タッグでもライバルでも、息がとってもあっているのは確かですね」
「なんだか、そういわれると少し恥ずかしいす」「ダハハハハ! なんだか弟みたいでカワイイだろ?」
「酔っ払いは怠いすね。兄貴置いてあっち行きましょうよ」「そうですね!」「コラコラぁ君たち!」

 パーティは温かさに満ちていた。
 私もワインを少しだけもらった。イチシはずっと笑っていて、私は隣でそれを見ていた。イチシはみんなから愛されていたし、みんなを愛していた。
 みんなの中にあのしっかり者の女性も、料理上手の壮年も、歌好きの少年も、コジョウも私も入っている。イチシはたくさんの「特別」を持っていた。
 パーティは温かさに満ちていた。

 酔っぱらったイチシを支えながら、そろそろ帰ることを話した。
「もう帰るの? 気を付けてね。なんだか、夜ここら辺で魔術を乱用している人がいるらしいの」
「だアいじょうぶ! タクシー拾ってくからね!」
「建物に斬られたみたいな大きなひび割れが入っていたんだって。それもあちこち。本当、気をつけてよ」

     ◇

 夜。二人で暮らしていたアパート。明日からは私だけの部屋になる。同じ布団の中で、目の前のイチシは石鹸の匂いに混ざって、やっぱりお酒の匂いがした。
「明日からは一人で寝るんだよ」
「うん。分かってるって」
「ホントにぃ?うふふ、寝ぼけて俺を探すなよ?」
「しないって、もう」
「そうだよな。ヒガンは大丈夫だよ」
 違うの兄さん。私、大丈夫なふりをしているだけ。
「うん、大丈夫よ。私、もう大丈夫」
 私は「特別」の「特別」になりたかった。

 蛇の赤い目を見てしまった。

 憎くて憎くて憎くて憎くて置いていく彼が嫌いで許せなくてそんな自分が嫌で全部たまらなくて、私の特別とイチシの特別はこんなにも違くて遠くて許せなくて悲しくてだから
 許せないものを全部壊しちゃえばいいと気づいた。
 私だけが壊せる。私だけが壊していい。壊して彼の中の命に一番近いものに触れたい。そうすれば私は安心する私は彼の特別の特別になれる、私は彼を見て彼は私を見る。彼を壊せば私だけを見てくれる。私だけをずっとずっとずっと見てくれる。だからそうしたいように壊しちゃえばいい。憎くて憎くて許せなくて切り裂いて奥の奥に触れば私を裏切ったから私を裏切ったから私を私だけを見てくれたらよかったのに。

「“見て”」
 紫の刃が彼を抱きしめた。

 少しずつ、確かめるように刃が肉に埋まっていく。彼は目を開き、呻き声をあげた。そして現状を理解した。彼は逃れられない。
 刃が硬いものに当たる。骨だ。ここに骨がある。それを知っているのは私だけだ。胸に耳を当てると、普段よりも早く強い音が聞こえた。
 骨を突き進んで、柔らかいものを突き破った。ごぽ、と彼の口から血液が溢れた。肺を貫通したのだ。

 私は彼を見ていた。彼も私を見ていた。彼は目をこれでもかと開いて、私を見ていた。私は一杯のワインよりも強い酩酊を感じていた。
 もう一つの刃で足裏から腿をなぞった。彼は暴れたので、両足に刃を突き刺して固定した。

「兄さん、よかった。こんな兄さん初めて見る。可哀想、兄さん」
 蛇が喋っている。

「痛い? 痛いよね。大丈夫。ずっとそばにいるからね、大丈夫よ。ほら、私を見つめて。そうすれば、世界は2人だけになるもの」
 震える彼を抱きしめた。
 彼は私を見ていた。私も彼を見つめていた。彼の目から涙が流れる。もう抗う力も無かった。血が肺の中を蠢く。それでも彼は言葉をこぼした。

「ずっと、お前が、怖かった」
「……」
「俺あの、とき死んでた、らよかったな」
「………………」
「……」
「……」

 私は本当にうれしかった。満たされていた。私は、かけがえのない、たった一つの彼の死を手に入れることができた。私はたった一人だ。彼の特別の特別。たった一人になれた。不変の一人に。
 私はひとりになった。

     ◇

 病院のような場所で私は言葉を続けていた。担当医の座る椅子に、青い髪の少女が座っている。

「それから、私は自分を切り裂きました」

「でも生き残りました。警察が来て、いろいろなことを聞かれた気がします。魔力の調査もしました。でも私はノーマーカーだった。私は魔術を使えないらしかったのです」
「ええ。貴方達のアビリティは人間の魔術と別物です。構成式が違うのですから検出されることはない」
「全てがいつの間にか過ぎ去っていきました」

「ひとりで生きていこうと思いましたができませんでした。私を助けてくれたり、好きだと言ってくれた人に、衝動を向けそうになりました。だから、二度と会わないようにした」
「貴方のそれは“嫉妬”ですね」
 病名のようだ。

「私はこうやって生きていくしかないのですか」
「はい。貴方は“嫉妬”のまま、そのまま苦しむのです。貴方のおぞましい感情が果実を実らせているのですから」

「でも、私は三人でいるのがとても楽しいんです」
「結構じゃないですか」
「楽しくて、楽しくて、だから、段々見てほしくなったんです。私だけを、私だけを。憎いんです。許せないんです。私だけを見てほしいのに」
「ええ、それで結構」
 少女は去った。

 白い病室が崩れていって、本当の姿が現れる。病院なんかじゃない。ここは墓地だ。
 蛇の死体が積み重なっている。

 私は蛇を殺し続けた。だけどいつまでも、際限なく蛇が湧き出てくる。蛇は気味が悪い、刺々しい桃色をしている。

 蛇を殺した。
 蛇が足を伝って何匹も登ってくる。そうして私を丸呑みにしようとした。
 その度に胴を割いて頭を潰した。それでも蛇は現れた。
 だから、私はそうやって生きていこうと思った。耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、この歪な気持ちを殺して死体にして殺して殺して殺して、そうやって、普通になろうと思った。思ったのに。
 蛇の死体をかき分けて、その先にひとりの死体があった。
 ひとりの死体を手に入れたとき、私は本当に幸福だったのだ。