第13話「あなたのことを知りたい」

 ホテル二階。ガシャン、と窓が割れる音でジウは目覚めた。月明かりがほのかに差し込む闇の中、四本の刃が蠢いている。
 セミロングの髪とゆったりとしたトップス、タイトスカートのシルエット。
「……ヒガン?」
 返事はない。よたよたと暗闇のシルエットはジウに近寄ろうとする。しかし、ぐらりとその場にへたり込んだ。ジウは咄嗟に起き上がり、ベッドを降りて彼女の元へ行く。
「どうした」
 ヒガンは床を見つめている。肩が上下し、震える手が顔を覆っている。
「け、消、して、うぅ、見た、く」
  血の匂い。次第にジウの目も暗闇に慣れてくる。白いトップスが闇に溶け込む暗色に染まっている。これは、彼女が傷を負っているのではない。返り血だ。
「駄目、だ、駄目、違う、違う。私、私」
「何があった」
 ジウは肩を掴み、彼女と目を合わせようとした。
 合った。細い瞳孔の赤い瞳だ。
「あ」ヒガンは目を見開く。
 そして、刃が彼を貫いた。ジウはゴボと血を吐く。貫通した刃は、そのままぐるぐると彼の体を拘束した。
 彼を刃に抱えたまま、ヒガンは窓から飛び降りた。

    ◇

 少しだけ、ほんの少しだけ、ドアを開けたつもりだった。
 そのように操作したはずだった。しかしなんだ? あの魔力はなんだ? 奥底の扉を開いたら、ああ、止めどなく全てが溢れた。彼女が封じ込めていた全てが。扉の向こうには何があった?
 そこには獣がいた。ベネディクティンはいなかった。

 ホテル一階。
 ロビンの眠りは耳障りな物音で阻害される。ゴン、ゴン、と鈍いノック音がする。
 むくりと起き上がり、頭を掻く。下ろした髪が頬に当たりくすぐったい。
 暗闇に目を凝らす。隣のベッドのヒガンも起きただろうと視線を動かす。……ヒガンがいない。
 音は止まない。不規則なリズムが続く。嫌な予感がする。
 ロビンはベッドを飛び降りた。裸足のまま歩いて、扉を開けようとする。やけに重い。何かが、誰かが扉にもたれかかっているような。力を込めて、無理やり開けた。部屋の外に足を踏み出す。

 入り口からロビンの足元まで、ミルク色の床に血の跡が続いている。バタンと扉が閉まった。
「…………“強、欲”?」
 息が多く含まれた、力のない声だ。
「……“色欲”か?」
 ロビンの視線の先で、見覚えのある美青年が血塗れで壁にもたれていた。
「どうした」
 ロビンが問いかける。青年は何かを喋ろうと口を開いて咳き込んだ。飛沫に血が混じる。
「楽になれ、ばと思ったが、やらかし、た」
 切られたシャツの合間から見える、右の腰から左の肩にかけて斜めに切り裂かれたような傷。切り裂く?
 誰もいない隣のベッド。
「ヒガンか?」
「あ、んなヤバイ、中身、知らね、え……」
 キルシュは朦朧とした目つきで呟いた。
「……あとで色々聞かせろよ」

 ロビンはドアを開け部屋に戻る。投げ捨てていた上着を拾い、ブーツに足を突っ込む。そのまま部屋を駆け出し、向かいのオーナーの部屋のドアを力いっぱいに叩きまくった。「オッサン! オッサン !!」
 ぎいと不機嫌な音を鳴らしながら、渋々扉が開かれる。
「お客さん。常識がねえのか、時計が見えねえのか一体どっちだ?」
「コイツ病院にっ!」
 ロビンの大声に次ぎ、容赦無く鼻から入り込む鉄の匂い。そして、横たわる血まみれの青年が目に入った。
「はァあッ?!」
 オーナーの眠気は夜空の向こうに飛び去る。
「運び先教えてくれ! 関係者ってやつだからさ!」
 腕につけていたゴムで髪を縛りつつ、ロビンはホテルの外へ飛び出した。

     ◇

 抵抗は功を奏せず、ジウは堅牢な刃に括られたまま夜の街を運ばれていた。彼の視界は地面のタイルと歩いている彼女の足元ばかりで、どこへ向かっているのかさっぱりわからない。ヒガンの足取りは先ほどよりかは危うくない。どこか楽しく酔っているような軽い足取りだ。
 ヒガンは道を曲がり、立ち止まった。彼女の目線の先には、マルアハの投擲により崩れた建物がある。その内部へ、ヒガンは足を踏み入れた。ガラスを踏んで、カシャンという音が夜に響いた。周辺に人の気配はない。
 比較的床の名残がある場所へ、ヒガンは拘束を解きジウを下ろした。
「ヒガン」
 ジウは起き上がろうと手を床につく。「!」そのとき、ジウの腕を左右、ナイフ大の刃が貫き地面へと留めた。身を起こすことを諦め、体を落とす。
「抵抗はしない」
 即座、太腿に刃が一本ずつ突き刺さった。彼の体には計4本、標本のピンのように刃が貫通している。
 ジウはヒガンを見上げる。彼女の首元には残り3本の刃が浮遊している。普段下されている4本のうちの1本を分割したようだ。

「ジウさん」
 初めて彼女が口を開いた。普段よりゆったりとした声だ。
「ジウさんって、痛くないんですか?」
 意図が掴めない。
「……まあ」
 ヒガンはジウの傍にしゃがみ、そっと顔を近づけた。髪のカーテンの中、赤い目がジウを覗き込む。
「“見て”」
 魔力が彼の中に入り込み、その体を調教した。
 瞬間、ぞっと奥底から湧き上がる熱。目を見開く。
「ッ、ぐ、ああ」これは痛みだ。忘れていた痛みだ。
 ヒガンはジウの頬を両手でそっと覆う。
「“見て”」
 二度目のアビリティ。鋭い痛みが瞬時に脳を突き抜けた。鈍化していた痛覚がのたうち回る。
 “見て”。それは自らに注目を、矢印を向けさせるスペルだ。彼の意識を自らに向けさせるために彼女は痛みを必要とした。アビリティは欲望を叶える力だ。術者がそう欲すれば、アビリティは必要分の魔力を消費し対象の痛覚を再生するだろう。

「痛いですか?」
 赤目が覗き込んでいる。
「見、ての通、りだ……っ」
「よかった」
 ヒガンは笑う。どこか幼い。
 脂汗が額に滲む。特に腹と太腿、多量の血が失われていく感覚に寒気が止まらない。傷口がドクドクと鳴っている。ジウは止まぬ痛みに強く瞼を閉じ歯を食いしばる。なんとかこじ開けた細い視界で、ヒガンは幸せそうな顔をしていた。
「な、んで」追いつかない理解にジウはなんとか言葉を吐き出す。
 彼の黒曜石の瞳は苦悶を宿す。とても可愛そうだとヒガンは思う。思い、心が高鳴った。
「中を見るんです」
 ヒガンは言った。
 愛おしい者にするように、彼の頬をゆっくりと撫でる。そのままヒガンの傍、もう一本の刃が伸びて、しきりに上下するジウの腹をシャツ越しになぞった。
「人の中って、誰も見ることができません。だから、それを見れる私は、一番の特別になれるんです」
 先ほど開けた穴にもう一度、刃がめり込んでくる。
「う、ッ、あああ!?」
 切れ目にヒガンは手を入れた。ごそごそと、鞄の中の携帯電話を探すように中身を弄る。ジウの視界で白い光が何度も何度もフラッシュする。脳に思考を形作る余裕などない。ヒガンの指先に硬いものが当たった。指先で掴み、擦る。「あは、ジウさんの骨はやっぱり太いんだ」
 
「痛いのは何年ぶりですか?」
「があッ」
「痛みで頭がいっぱいですか?」
「ーーッ!!」
「フフ、嬉しい。うれしいな」
 ヒガンの目は涙で潤っている。溢れ落ちた滴がジウの体内に落ちて消えた。


「私だけが、貴方の中身を見れるのは、とても嬉しい」
「……」
「なんだか、初めてこんなことをだれかに言いました」
 ヒガンはふと顔を上げ、どこかを見つめた。
「私、兄さんの中を見て、幸せで、ずっとそれが忘れられなかったんです。もう兄さんはいない。でも、私は……私も、寂しいのはもういやなんです」
 夜風が髪をかすかに揺らした。
 ヒガンはジウを見た。顔を近づける。赤い髪が外界を仕切って、ジウの視界には彼女の目しか映らないだろう。
「私が見えますか」
 問いかける。

「私が………」
「……」
「私が怖いですか」
 彼は動かない。

「ジウさん」
 静寂が訪れる。ヒガンは彼を見つめている。胸に耳を当てる。静かだ。
 血まみれの手を彼の手に重ね指を絡めた。冷たい。
 虚ろを見つめる彼の目をじっと覗く。再生を待つ。
「ジウさん」
 動かない。

 ガシャン、とガラスを踏む音が聞こえた。振り返る。近づいてくる足音にヒガンは気がついていなかった。
 黄色いジャケット。ロビンが崩れた入り口に立っている。
「よう、ヒガン」
「……ロビンさん」
 ヒガンはゆっくりと上体を起こし手を解いた。

「ヒガンの欲望はそれか」
 ロビンからは横たわるジウの足が見えた。そして、その周辺の血の海が。胸焼けしそうな鉄の匂いにロビンは顔をしかめる。
 ヒガンは口角を上げる。俯き垂れる前髪で目元が見えない。
「ちょうど良かった。次は貴方だったんです」
 ゆらりと立ち上がる。
「おれを真っ二つにしたいのかな?」
「いいえ。中身を見るんです」
「どっちも同じに思えるけどなあ」
「違うんです。私は、だれも知らない貴方のことが知りたい」
「ああ。それならおれも一緒だな」
 前髪の隙間、ヒガンが目を見開いた。
「おれも、ヒガンのことを知りたいよ」

「“見て”」
 間髪入れず、伸びた刃が歪な軌道を描きロビンに向かった。
「“掴め”!」
 ロビンは黄金の手を展開し刃を手のひらに受け止める。衝撃に体が後方へ押される。この狭い路地では不利。ロビンは駆け出した。
 ヒガンは刃を縮める。一目、ジウを振り返った。様子は変わらない。
 ヒガンは駆け出した。