第17話「つながり」


 イノセンスは目を開く。
 太陽の光を感じた。緑の草原が地平線の彼方まで続いている。
 呼ばれたらしい。自分を呼ぶのは“怠惰”、“憤怒”、あとは“強欲”。この三人だけだ。

「よっ」

 ロビンが草むらから顔を出した。耳を動かし、ついていた草を落とす。

「この草っ原ってさ、おれの夢なんだよな?」
「……はい。あなたの魂が形成している心象風景です」
 イノセンスはふわふわと浮いて、草の中のロビンを見下ろす。
「おれこんなとこ行ったことないのになあ」
 ロビンは遠くを見つめる。今、ただでさえ限られている人間の生存領域で開発が行き届いていないところはない。自然というものはメルトラインの外側へ追放されている。

「ちょっと探検しようぜ!」
 ロビンは再び草の海の中に潜り込み、どこへともなく進んでいく。わさわさと草たちが掻き分けられる。姿が遠くなっていく。
 ロビンは振り返る。
「イノセンス! はやく来いよ!」手を振って呼んだ。イノセンスはそれをしばらく見つめ、ようやく動き出した。
 
 高度を少しだけ下げ、ロビンの背後を浮遊する。
「昔はグランダリアにも草っ原があったのかなあ。イノセンスは見たことある?」
「質問の意図が分かりかねます」
「気になったからさ」
 ロビンが背後の彼女の表情を見ることはできない。

「昔には存在しました。今もメルトラインの向こう側では植物が生い茂っています」
「へえ! メルトラインの向こうってめちゃくちゃ広いんだろ?」
「はい」
「そりゃお宝もザクザクありそうだよなあ。アハハ! 行くのが楽しみだ!」
 ロビンは無邪気に笑う。
 メルトラインの外に行くためにはマルアハを全て倒さなければならない。

「楽観なさらないよう。マルアハは強大です」
「楽観はしない。ただお宝の地図を辿っただけだ」
「地図?」

「盗みたいモンを盗んでいけば、最後には外にたどり着く」
 ロビンは立ち止まり、振り返る。草の背丈はロビンの胸ほどだ。イノセンスは草の上を浮かぶ。
 ロビンはピースサインのように二本指を立て、それをイノセンスに向けた。

「まず、おれはマルアハのことが知りたい。あれはまだ誰も知らねえ世界の謎だ。そいつを盗んでやる」
 中指を畳む。
「そんで、全部倒して盗んですれば、多分メルトラインも消える!」
 人差し指も畳む。そして、握られた拳を開き手のひらを見せ、また閉じた。掴む動作だ。
「お宝のつかみ放題だ! こんなに楽しいことはねえよ!」

「…………やはり、楽観しているように思います。貴方が欠ければ、あらゆる不利益が発生します。気を引き締めるように」
「大丈夫だって! 絶対に盗んでやるさ。そのためにゃ死ねないさ」
 ロビンは再び歩き出した。イノセンスの苦言の追撃が行われなかったのは、単にこれ以上は無駄だと判断したためである。

 草むらを抜けた先に、一本の木が生えている。
 ロビンはそれにひょいと上った。イノセンスも上昇する。相変わらず、ロビンとは一定の距離を置いている。
 地平線に向かって、緑と青空が続いていた。
 雲がひっきりなしに動いている。そよ風が吹いてロビンの前髪を揺らした。すん、と鼻を鳴らす。何の匂いも感じ取れなかった。

「マルアハには8体目がいるのか?」
 顔は正面、単刀直入に言った。

「はい」
 肯定。早々に結論が下される。
 ざあと葉が鳴った。

「今までのやつと比べてどれくらい強い?」
「マルアハを七体揃えて届くかどうか」
「そりゃ絶望的だ」
 絶望的という言葉の割に、ロビンは気楽そうに言った。

「8体目のマルアハが、メルトラインを出力しています」
「二体倒しても青線が動かないわけだ」
「一つのナナツミにつき、マルアハ一体分の魔力が吸収されるのも、“それ”に対抗するためです」
 イノセンスは機械的に答えた。

 8体目のこと、またナナツミの特性も七人が揃ったあの場では開示されなかった。聞かれなかったから言わなかった? いきなり全てを明かすのは混乱するから? 8体目にビビって逃げ出さないように?
 どちらにせよ、彼女はまだ情報を持っているかもしれない。最初から全てを開示するという手段を彼女は取らないらしい。

「そいつはどこにいる?」
「エデナの門に」
「エデナの門……ああ、アルカディアん北の」

 エデナの門とは、大陸最北地区アルカディアのさらに北、エデナ神殿に存在する結界のことだ。
 結界の向こうにはエデナと呼ばれる楽園が存在すると、その楽園の名を冠するエデナ教の信徒は信じている。

「全てのマルアハが倒されたとき、8体目が動きます」
「で、やつが世界を滅ぼして終わりってわけだ」
 その暁には、今まさに目の前にあるような広大な自然が星を覆うだろう。ロビンは肘をついた手の上に頬を置く。

「私は、彼をアスと名づけました。まごうことなき最強のマルアハ」

 ロビンの瞬きの間に、イノセンスがロビンの目の前に現れる。
 大きな青い目が、瞬きもせずにこちらを見ている。

「あなたたちのやるべきことは、七体のマルアハを倒し、魔力を補給すること。そして、エデナの門へ行きアスを倒すことです」

 風に白のスカートが揺れている。
 空が暮れている。青からオレンジ色のグラデーション。

「おれはやりたいことをやるだけさ。その先にお宝があるんなら、アスとかいうのもぶっ倒してやるよ」
 ロビンの黄色の髪が揺れる。不安など微塵も存在しない顔が、浮遊するイノセンスを見上げていた。イノセンスはそれを見下す。夕暮れの逆光でイノセンスの顔は見えない。
 眉を顰めたような、気がした。

 次の瞬きで、イノセンスはロビンの横に戻っていた。いつもの無表情だ。気のせいだったのかもしれない。
 
「つかさ、他のやつはどうしてんの?」
 ロビンはもう一つの疑問を出した。
「“憤怒”は私と接触します。しかし“暴食”と“色欲”に動きは見られない」
「“傲慢”は?」
「あれは、私とのパスを切りました」
「パス? なにそれ」
 
 イノセンスはロビンの方を向いた。口を閉ざす。
 何かを思案しているのか? ロビンが声をかけようと思ったそのとき、ようやくイノセンスが口を開いた。
「……手を」
 ロビンは手を出す。一寸の間を置いて、イノセンスがその手をそっと掴んだ。

 ぐわ、と下方へ強烈な圧力。

「あっ!?」
 体が引きずり落とされる。大地にぶつかる。ぶつからない。
 どぽん、とロビンは大地の下へ沈んでいた。
 ロビンは地上を見る。青空と草原が遠くなっていく。

 ではそれらのテクスチャの下には何があった?
 夢の底には闇がいた。
 
 ロビンは目を丸くして見渡した。今まで見たことのないような真っ暗闇。ときどき、泡のようなものが見える。いつかテレビで見た深海のような場所だ。
 ロビンは息苦しいような気持ちになる。つつがなく呼吸はできているが。
 足元を見る。地面はない、暗闇の中を浮遊しているようだ。隣を見る。

 黒翡翠のような肌は闇に紛れ、イノセンスの青の髪とまつ毛、大きな瞳が薄く光を灯していた。
 髪がゆらゆらと揺れている。深海の光るクラゲのようだ。その動きはゆっくりで、時間の流れも共に遅まっていくような気がした。
 ここには何もない。彼女だけが確かな存在だ。

 手を伝って、彼女の魔力を感じる。今までに感じたことのないような、不思議な魔力が脈打っている。温みを感じるわけでもないが、冷たくはなかった。

「ここはたましいの海。地中を流れる魔力の空間」

 彼女の声が奇妙に空間へこだました。
 たましいの海、前回会ったときにロビンは聞いている。イノセンスが普段控えているという場所だ。
「夢を見る、とは魂が一時的にここへ落ち、周囲の魔力を用いて箱庭を作っている状態のことです」
「え、じゃあおれずっとたましいの海にいたの?」
「はい。今、箱庭を取り払い、少しだけ海の深くへ潜っています。上よりも流れが強い」
「流れって、全然感じないけど」
 ロビンはふわふわとイノセンスの隣を漂っている。川に流される、といったような力は感じない。

「私が貴方を留めています。手を離したら魂は流され、死亡してしまうので注意してください」
「大分やべーじゃん」
 ロビンは少し強くイノセンスの手を握りなおした。

「先の疑問ですが、見ていただいた方が早かったので」
 視界の下から光を感じる。胸元から青色の線がイノセンスに伸びていた。
「これか!」

 イノセンスの元には、他にも5本の線が伸びている。それらは天井なき天井へそれぞれ続いていた。
「これにより、貴方たちの座標が分かります。パスがあることで、初回や夢での会合を可能にしています」
「じゃあ、“暴食”とかの場所もわかるじゃん」
「いいえ。あくまで観測できるのは、たましいの海からの位置。地上においてどの地点に存在するのかは不明です」

 ホテルの一階で天井を見つめても、頭上二階にどんな家具が置かれているかなど分かるはずがない、という理屈かとロビンは想像する。
 ロビンは見上げる。そもそも、このたましいの海という場所には目印すらなく、方角も全く定かではない。この地点が地上、ロビンがぐうぐう寝ている第16地区のとあるベッドの下あたり、ということだけが確かだ。

 イノセンスが地上に浮上し現在地を特定することはできないか? しかし、ロビンは彼女が依代を使うのは疲弊する、と言ったことを思い出す。
「ま、地上の領分はおれたちがやれってことか」
「はい」

 たましいの海には自分たちの声のみが響く。
 ロビンは再度見渡した。景色は一片たりとも変わらず、目を細めても細かな泡のようなものが辛うじて見えるだけである。
 地中を流れる魔力の空間、ということならばおそらく狭くはない場所にいるはずだ。しかし、どこまでも閉鎖的に感じる。暗闇の水槽に閉じ込められているような。

 その中で青の光が、それのみがぼんやりと瞬いている。

 ロビンは飽いた暗闇を放り捨てて彼女の青色を見ていた。その明かりはとても綺麗で、地上では見たことのないものだった。肉の目で彼女を見ているわけではない。この魔力の海の中で、魂で彼女を見て、それをきれいだと思った。

 イノセンスはここでこそ輝く存在だった。なれば、彼女はここで生きている生き物なのだろう。
 ここにイノセンスはいた。おそらく長い間。ロビンが地上を駆け回っている間、ずっとイノセンスはここで漂っていた。他に何もなく、誰もいないこの海で。
 ロビンはそれを想像した。自分なら耐えられるだろうか?

「ここは寂しいよ」
 ポツンと言った。

「イノセンスもそう思う?」
 隣にいるイノセンスの大きな瞳がこちらを向いた。

「……」
「ここは寒いし暗いし、何にも面白くない。何も盗るものがない! 地獄みたいだ」
「なぜ、それを聞くのですか」
「おれは寂しいから」
 イノセンスは目を見開いた。硬直した。ゆらゆらと、青い髪だけが動きを見せる。
 ロビンは何の企みがあるわけでもない。ただ、そう思ったからそういった。
 瞳をロビンから逸らし、下方を見た。小さな唇をようやく開いた。

「私は、人ではありません。寂しいと思うことはない」
 イノセンスは目を伏せる。質問へ回答するときのような、起伏のない声色とは少し違うように感じた。何かを、押さえ込んでいるような声だ。

 ロビンが二の句をつぐ前に、イノセンスの平坦な声が現れた。
「時間です」
 イノセンスは、ロビンを連れて浮上していく。彼女の顔は青い髪に隠れて見えない。
 しばらく浮上すると、ほのかに暗闇の濃度が下がった場所についた。その頃合いに、イノセンスは手を離す。

 すると、ロビンはさらに上へ引っ張りあげられる。体へ魂が戻ろうとしているのだろう。急速にイノセンスの姿が遠くなる。暗闇に光る青色は遠くの星のようにも思えた。遠くなる。
 彼女の動揺を初めて見た。

「やっぱ、おれイノセンスのことも知りたいよ!」
 イノセンスに向かって叫んだ。
 青の髪が揺らいで彼女の表情が垣間見える、その前にロビンの意識は途切れた。

 ロビンの消えた暗闇をイノセンスはじっと見ていた。

「私は、人ではない」
 先の言葉をもう一度言った。
「人は、ここにいられない。人の魂であれば、溶けて、正しい循環の中へかえっていく」

 イノセンスは暗闇の中で奥歯を噛み締めた。いなくなった黄色い星を睨みつけた。

「……お前に、何が分かる」

 ロビンの手の温もりがまだ残っていた。握りつぶして忘れようとしても、まだ残っている。
 他ならぬ「私」にかけられた声がまだ消えない。何年ぶり? 何百年ぶり? 何千年ぶり?

「……“強欲”はこのままマルアハを倒していくでしょう。“嫉妬”も。近いうちに“憤怒”も。このままやっていけば、七体は倒される」
 孤独の海に呟く。

「“強欲”は“傲慢”のように裏切らない。あれは自分の欲に正直よ。まだパスは繋がってるし、保険もある。それでも裏切るなら壊せばいい」

 それを想像した。体の、ありもしない温度が下がっていく気持ちになった。
 壊すのはそれなりの労力がかかるし、今は楽しいと思える気がしなかった。
 前は楽しかった。あれを壊したのは楽しかった。ざまあみろと胸がすいた。

「今度こそ、うまくいく。うまくいくはずよ」
 眉を顰め、己に言い聞かせた。

「今度こそ、贄の役割を果たして」
 願った。今は届かぬ己の神と、他ならぬ七つの果実へ。