第19話「堕ちた者」



 ジウはビルの廊下で窓の外を伺っていた。ウシの尾によるフリスビーを観戦するには、少々位置が低かったが。

 建築物の合間、ウシのマルアハへ尾が衝突する。
 衝撃に後退したウシを受け止めた建造物はひしゃげ、崩落の叫びを上げた。舞い上がる砂煙がマルアハを包む。
「(ロビンか? いや、あっちにはいないはずだ)」

 ロビン達の待機地点と異なる方角から尾は投擲された。作戦に変更があれば連絡が来る。ロビンたちではない。ならば、誰が物体を投げ返した? そのような芸当をできるものが他にいるのだろうか?
 いる。欲望の限りに力を引き出すあの「果実」であれば。

 砂煙はがはらわれる。
 ウシはぐらりと衝撃の余韻を体に残したまま、徐々に浮上する。三日月状の尾は、船のような形をした彼の体、その末端に付随した。大したダメージではなさそうだ。

 ジウは無造作にポケットへ入れていたトランシーバーを取り出し、ボタンを押す。
「位置についた。西、電波塔方面におそらくナナツミがいる」
 ザザ、とスピーカーがくぐもった音を吐いた。
『こっからも見えた。ハデなやつだな!』
「追撃はない。そっち何か見えるか」
『煙、赤いのが見える! 発煙弾だ』
『二発目です!』
『あー……うん、遠ざかってる。多分、おれ達に任せたってことだ』
「じゃあ、予定通りか」
『おう!』
『よろしくお願いします』
 通信が切れる。ジウはトランシーバーをポケットにしまった。

 窓を見やる。この地上9階では十分にマルアハの全身を伺うことはできない。事前に提示された雑誌の写真を思い出す。

 ウシのマルアハ。
 船のような身体と、牛のような面、その上の光輪。その船尾には三日月型の尾が備わっている。
 主だった特徴はその船のような身体であろう。しかしながら、ウシのマルアハは水上に浮かぶ船ではない。マルアハは水でなく空に浮上していた。
 くわえて、水を生み出す船だった。

 ジウは眉を顰め、マルアハの変化を眺めている。
 船の側面から、砲台じみた筒状のものがゆっくりと伸びる。左右共に、2本、4本、6本。
 三番目の大砲がガタンとセットされた。
 
 まずは光景。空に6本の滝が生まれたのをジウは見た。そして水は重力に従い、地に叩きつけられる。
 次に音。どどど、と轟音。

 魔力によって形成された水の排出。それがこのマルアハの切り札、最たる厄介ごとであった。
 水は魔力の限り止めどなく流れ出る。第十九地区の低地をこの水が満たし、新たな湖をこさえることすら可能である。

「厄介だ」
 一目でわかる困難を前に、ジウは独り言をこぼした。口に出さないとやっていけない。
 煙草の煙を深く吸う。逃げられるのなら逃げ出したい。
 役目が彼の足をここに留める。胸にこびりつき、酸の如く胸を焼く嫌悪をなんとか宥める。
 彼は川が恐ろしかった。これも似たようなものだ。あの荒れ狂う水のうねりは、記憶の奥底に沈んだ何かを呼び起こそうとする。

 徐々に水量が増えていく。落下する水はまるで建物をやわらかな食パンのように容易く破壊し、その残骸を浸していった。
 ジウはマルアハの反対方向、街でも一際高いその建造物を見つめた。
 第19地区庁舎。そこに二人はいる。

     ◇

 エレベーターが上っていた。外側には大きなガラスが嵌められており、街を一望することができる。
 ロビンとヒガンは外を見ていた。赤い煙が空を漂っていた。
 エレベーターが止まる。機械音声が地上20階、屋上であることを告げた。

 風が強い。
 バタバタとスカーフを揺らしながら、ロビンはその先へ歩みを進める。ヒガンも、硬い面持ちのままその後ろをついていく。背後に二本の刃を携えて。

 第19地区庁舎、その屋上は展望台として一般開放されている。
 この地区はビジネスの街として栄えている。建物の多くが高いのは、その多くの人口を抱えるため、そして見えない線の向こう側、シティを睨みつけるためでもあった。
 ウシのマルアハがよく見える。およそ地上200mを浮遊しながら、すでに6本の管から水を吹いている。

「緊張する?」
「はい」
 視線は正面を向いたまま、二人は言葉を交わす。

「大丈夫だって、散々練習しただろ?」
「……あれって、練習の範疇に入りますか?」
「入る入る。ものごと無駄じゃないね」
 それらしく12歳の子どもは言った。ヒガンは笑った。
 展望台の先、落下防止の柵の前で歩みを止める。

 ロビンは両の手を前に突き出した。

「“掴め”!!」

 大きな黄金の手が展開する。
 目の前、10階建ての建物を掴み、そしてそれをウシのマルアハに投げつけた。

 ウシのマルアハは飛んでいる。まずはそれを落とさなければならない。そしてもう一つ、あの流れる水を止めなければならない。
 投げられた建物はウシの面にヒットした。
 空中の船はぐらりとバランスを崩す。流れる水の軌道が揺らぐ。しかし水は落ちている。止まらない。
 その手を止めずに投石する。ウシに当たる。届かず落ちる。かすかに当たる。飛び越える。飛び越える。飛び越える。

 そして、ロビンはとあるビルを掴む。円柱型の商業ビルだ。それを鷲掴み、投げ飛ばす。
 風を切り飛んでいく。それはウシに命中しない。その頭上を通り過ぎる。

「“見て”!!」
 ヒガンは自らの力、その4分の2に命令を下す。

 船の上空、円形の商業ビルが割れた。

 内部から紫の刃がしなり、幾重の斬撃が瞬間現れる。包丁で細切れになった具材が鍋に放り込まれたように、瓦礫が船上を降り注ぐ。
 その合間を紫の刃が真っ直ぐに駆ける。そして船に突き刺さった。
 大きくマルアハが揺れる。

 ヒガンは遠景、マルアハへ眼を釘付けていた。遠隔操作に精神を張っている。
 貫いた。
 温度のないものと、その温もりを貫いた。刃越しに感覚が伝わる。刃を包むその肉が蠢いている。
 それを見たいと思った。すぐそばで見つめ、抱きしめたいと思った。
 だから目を見開いていた。赤い目を見開いていた。

 船上、刃に血が伝い、白の甲板を染めている。

 瓦礫をかき分け刃が突き刺さっていた。船と、“彼”の左足に。縫い付けるようにぐるりぐるりと、刃は船と彼を固定していた。
 ジウは跪き、足から飛び出ている刃を左手で掴んだ。手筈通り。船から落ちぬよう体を船に固定する。

 ジウは表情を変えずに、空いている右手を甲板に付け、チェックメイトを言い渡した。
「“忘れろ”」

 ウシはぐわん、と揺れた。
 混乱に身を揺する。甲板の上に異変の元がいる。左に振る。右に振る。瓦礫たちが急拵えの浅い海へ落ちていく。一回転する。もう一度一回転する。

 それでも、消えない。違和感が消えない。得体の知れない魔力が止まらない。まだ、まだノミは張り付いている。
 マルアハは頭を沈め、それから天を仰いで呻き声を上げた。
 だが、さらなる抵抗をする前に、空の飛び方が失われていく。

 浮力が弱まる。ゆっくり、ゆっくりと堕ちていく。
 6本の滝、その水量が目に見えて減っていく。その様子を庁舎屋上の二人は見ていた。
 ヒガンは歯を食いしばる。強く願っていた。早く、早く彼の姿を見たかった。

 ロビンは柵を掴み、前のめりにマルアハを観察していた。
「(まだだ。もっと、もっと、もっとこっちに落ちてこい)」

 ある程度の高度になったところで、庁舎を降り接近し、あの青いリングを掴む。倒すことがロビンの目的ではない。
 いいのか、もう行っていいのか? 衝動的に足を柵にかけた。タイミングを計る、いけるか? 大どろぼうはウシを睨む。まだ船底しか見えない。
 いいや、行け。手を伸ばしに伸ばせば、その間この速度でマルアハは落ちるならば届く! そのまま身を前に押し出した。

 風を切る音が聞こえた。マルアハの尾が船の尻から姿を消している。
 瓦礫が弾き飛ばされた。
 そして、下降が、ゆっくりと、止まった。

 人類はマルアハを追い詰めたことがない。彼らの奥の手を引き出せたことは一度たりとてありはしない。

 ロビンは体を引っ込めた。目を細め耳をすまし情報をかき集める。
 計画にヒビが入ったことを瞬間に察した。船上で何かが起きた。

「ジウ」
 ヒガンは声をこぼした。

 ウシの甲板。
 ジウの体を鉤爪が引き裂いていた。詰まるところ、それは彼の尾だった。
 尾は甲板上に飛び込んだ。そして4本に裂け、より鋭利な三日月へと爪へと変形する。
 あとは単純、自らの背を掻くように鉤爪は尾から頭の方へと掻き上げられた。

 ヒガンの刃と左足を甲板に残し、瓦礫もろとも、ジウは激流の中へ身を落としていった。