あるひとりの青年





 星の果てに、「エデナ」という大地があります。

 エデナには、緑眼の民が住んでいました。
 そして、「星の樹」が人々の営みを見守っていたのです。

 おお聖なる木よ。星廻す唯一なる大樹――

 聖なる木は、緑眼の民へ、七つの果実を渡しました。
 すばらしい力を持った、人々を守り、導くための果実です。

 おお聖なる木よ。星の力統べる永久の樹――

 エデナには、望むものすべてがありました。
 皆、この地を「らくえん」だと称しました。

 ある日、聖なる木は、人々をこの地から追放しました。

 緑眼の民は、だれひとり、らくえんへ戻ることはできませんでした。

     ◇

 くすんだ壁に物語が描かれていた。
 森の奥深くに造られた、この神殿で、二人の男がそれを眺めている。
 黒眼鏡を掛け、大きなリュックを背負った行商人。
 長尺の杖を持った、エデナ民族の青年。
 共に、思いがけぬ同行者だった。危険な道中を共に歩んだ、ひととき限りの隣人である。

 行商人は、リュックを背負いなおし、青年へ話しかける。
「この果実って、本当にあるんですかねえ」

 青年は夜闇のようだった。
 腰ほどまであるうねる黒髪が、薄暗い神殿の中では特に、その体と同化して見える。
 緑色の瞳。
 見れば脳裏に焼き付く、美しい宝石のようであった。それが、紙一重で人離れしている印象を与える。

「……」
 彼は黙っている。
 行商人はへらへら笑ったまま、くわえて言った。
「だんまりはやめてくださいよ。あんた、持ってんでしょう。“らくえんの果実”」
 行商人には企てがあった。彼は知っていた。

 ――強い力を持つ緑眼がいる。
 なぜ強い?
“らくえんの果実”という、エデナの秘宝を使うからだ。“らくえんの果実”は持ち主に、人離れした力を授ける。

 だれもが果実を欲しがっている。
 野心を持つ三流の魔術師から、大国グランダリアまで。

(売れば、一生贅沢のできる値段になる)
 ばら撒かれた手配書が示す特徴を、隣にいる青年は満たしている。

 これ見よがしに取り出した一枚を、行商人は眺めてみせる。
「いい絵ですよ。よく似てる」
 青年は行商人を一瞥する。
「で? 持ってんでしょう」

 青年はようやく口を開いた。
「……ああ。そいつをポケットに入れてたなら、見せてやったよ」

「へえ、じゃあ実体がないんですね? 魔力で編まれたエネルギー体って噂、ホントだったんだな」
 行商人は左腕の袖を捲った。入れ墨が、その上腕まで刻まれている。

「魂にひっついてる。欲しければ、果実を取り出させるか、オレを殺すか。どちらかになる」
 闇に緑の瞳。

 風が吹いていないのに、ざわざわと草木が揺れて、鳴いていた。
 笑みを携えたまま、行商人は一歩、二歩と退く。左腕の刻印を撫で、起動した。
 刺青が光を纏う。左腕を上に持ち上げる。それが合図だ。

「《ヴーウェイ》、壁」

 魔力は彼の指示に従い、壁を生み出す。
 らくがきをされたような色鮮やかな壁が、波のように青年へ襲い掛かった。
 
 青年は、杖で床を打つ。

「《リバース》」

 大地を流れる魔力が、大気を漂う魔力が、彼の元に集う。
 それが青年の命令だった。

 コード――魔術を発動するための、パスワードのことだ。
 「発火」「流水」「芽生え」……基本的な意味を含んだ、定型のコードが流布している。
 しかし、これは芸術家たちに与えられたテーマのようなもので、そのテーマをどのように描くのかは、芸術家たちの手に委ねられる。

 《リバース》は「逆転・再生」を示すコードで、青年にとっては、こういう形を持つものだった。

 神殿の床を持ち上げ、生え出づる枯れ木。
 白い枯木が、らくがきの壁を貫いた。
「くっ」

 枝分かれをする棘のようで、それは骨のような、命の失せた色をしている。
 目玉を横に動かすだけで、波打つような木目が観察できた。木の鋭い刃のような枝先が、行商人の首に突きつけられている。

「これからどうしようか」
 青年は聞いた。
 壁に空いた穴の向こうで、緑色の瞳が、失望や怒り、悲しみも、何一つ内包しないで、行商人を見据えている。

(こいつ……)
 ぞっとする。
 チャンスを前にした高揚感が、容易く氷点下に落ち込んだ。
 心臓の音がよく聞こえる。黒眼鏡の奥で目を見開いていた。濃い色のレンズで目元は隠されているのに、青年には筒抜けのような気がしてたまらない。
「…………」

 行商人は左腕をゆっくりと下げて、代わりに右手を挙げてみせた。
「ははは! 降参、降参です!」
 壁は崩壊する。それを見て、青年は突きつけた枯木を引っ込めた。
 
「そりゃ、最初はそのつもりでしたよ? でも、こんな人っコいないところで死ぬなんてごめんだ。妹に知らせも届きゃしないよ」
「家族がいるなら、なおさら博打はやめろ。こんなもの、不運しか呼ばない」
「一攫千金の大チャンスですよ。パッとゲットして、サッと売っぱらえば一生困りません。まあ、勝ち目のない博打なんで、やめますけどね!」
「……」
 青年は呆れたようだった。

「帰りましょっか。こんなジメジメしたところは嫌になる。あんたも太陽が恋しいでしょ」
 行商人はくるっと壁画に背を向けて、さっさと歩き出した。

「そう見えるか?」
 横切った行商人に、青年は尋ねる。
「ぜーんぜん」
 顔も見ないで、行商人は答えた。

 青年は小さくため息をついてから、彼の後を追った。
 青年は神殿から森を出る道順を知らない。行商人も、道中の危険から逃れるには手数が少なかった。

「"災い"さん、次はどちらへ?」
「これから考えるよ」
「あんたは彷徨ってるみたいですね。家でもつくっちまえばいい。それこそ、日の当たらない森の奥。おすすめ物件、あるけど買います?」
「お前、一体何屋なんだ」
「売れるモンならなんでも売ります。それよりどうです?」
「いらないよ。どうせ、あんたみたいのが来るんだ」
「ははは! 耳が痛いですねぇ」



 青年は“災いの魔術師”と呼ばれた。彼の居場所は、まだ見つからない。
 しかし、ある女の子と出会うだろう。それから、お話は始まる。それから。