『ROSES:Beatrix』

「5本ほどください」
「…………」

 ホテル・ミスティルの庭の前、簡素に設えられた販売所。今にも襲いかかってきそうな生茂るバラたちを背に、セドリックは目を丸くした。
 清潔感のある青みがかったスーツ、きっちりと固めた銀髪。それに真っ白な財布。
 ベアトリクスは表情も変えず、セドリックが商品を差し出すのを待っている。

 セドリックといえば予想だにしない客に困惑していた。客? 彼女はロード・アルフレッドの右腕。まさしく彼の一部で、彼が操作する端末の一つだ。彼女の行動は、等しくロードに結びつく。

「……それも野郎の命令か?」
「いいえ」
「信じられるとでも?」
 セドリックは頭が煮込まれていくのを感じながら、傍らの水の入ったバケツから既に整えてあるバラを手に取った。薄気味悪い目を見ないようにした。

 彼がベアトリクスと言葉を交わすのは三回目だ。一度目は、この街へ招かれたとき。二度目は、ロード・アルフレッドの執務室を訪れた帰り道。
 見送りを命じられ、セドリックの後ろを付いてくるヒールの音が煩わしかったのを覚えている。そして、入り口まで降りてきたとき、彼女はようやく口を開いた。
「またのお越しをお待ちしております」
 そうして、一礼をした。これも彼に命じられた言葉だったのだろう。セドリックは「ああ。必ず来る」と返した。あのとき、セドリックの家にはもう誰もいなかった。

「本日は、私用です」
 急速に過去へ引きずられた思考が、彼女の声で現在に戻った。
「そうかい。今回の台本は、少々長めに作られているようだな」
「台本?」
「気に留めるな。俺はお前を介してだろうが、あいつに何かを渡すことはしない。 つまり、お前にもバラを渡さないってことだ」
「勘違いなさっているようですが、私はロード・アルフレッドにそれを渡そうとし ているのではありません」
 昼時も過ぎた曇り空。彼女の後ろに客は並んでいない。凛とした立ち姿は不動だ。
「じゃあ誰に?」

 青い瞳が少し、ななめ下方を向いた。考えている? 自分で? セドリックは彼女が思考する姿を初めて見た。
 言葉もなく少しの間。彼女は、そっと口を開いた。

「私のみが持っているつながりの、その相手に渡すのです」
 セドリックは頭の中で言葉を反芻する。
「……つまり、友達?」
「はい。恐らくそうでしょう」
「恐らく?」
「……彼女からそう言われたため、そのまま友達という言葉を使いました。しかし、私はあまり、よく分からないので」
「分からないって?」
「つまり、友達という存在について、どういうものなのかを、よく理解していないのです」
 清潔な言葉が稚拙な内容を包んでいた。

「…………相当だな」
 思わず言葉が溢れた。相当、彼女は一人で考え、行動する力を育まれていない。
 彼女の、年齢に不釣り合いな無知が痛々しかった。初めて、10cmのヒールを履いた彼女が、自信のない子どものように見えた。
 彼女は、養育する者から与えられるべきものを与えられていない。言葉を自分で解釈し、当てはめることも一人ではおぼつかない。
 それは、紛れもなく彼の支配の結果だ。

「友達っていうのはな。一緒にいて楽しい相手のことだよ。お前は、その相手と一緒にいて楽しいか?」
 バラはまだ彼の手の中で、目的は果たせていない。ベアトリクスは強制的に彼の質問へ答えざるをえない。思考する。少ない自らの引き出しを開けて、中身をぶちまける。床の上がぐちゃぐちゃで、「答え」をうまく見つけられない。今、ここに「答え」を拾い、渡してくれる人はいない。
 だが、床の上にぶちまけた紙の中に、たくさんの彼女がいた。自分のことを、友達と言った彼女が。

「…………およそ、私も友達だと、考えます」

 頑なな鉄面皮が揺らいだように、見えた。
「……ふうん」
「このような回答で、納得されましたか」
「ああ。多分、あんたは本当のことを言っているんだろうな」
 彼女の思考の拙さでは、嘘という高等技術は使えない。

「それで、バラを渡していただきたいのですが」
「分かったよ。ラッピングは?」
「よろしくお願いします」
「紙の色は?」
 彼女は簡易テーブルの上、包装紙の一覧を覗き込んだ。
 セドリックは側に置いてあった輪ゴムを手にとりバラの茎を止める。茎についている水分を手元の布巾で拭きつつ回答を待つ。
「…………桃色で、お願いします」
「へいよ」
 セドリックは背後、適当に並べられた包装紙のロールの中からピンク色のものを掴み、机上、ベアトリクスの目の前に広げた。
「代金は」
「いらん」
「……了承しました」
 包装紙の上にバラを置く。そばに放置してあった大きなハサミを手に取り、ざっと適当な大きさに紙を切る。ジャキジャキと小気味良い音を聞きながら、ベアトリクスはセドリックの手元を眺めている。
 無骨な手がみるみる内にバラを包んでいき、形を整えていく。連日の作業のおかげでメキメキとラッピングの腕をあげてしまった。ドゥルムからそれっぽいと薦められた細い麻紐を花束の持ち手にぐるぐると巻き、最後、リボンの形に結んだ。
 セドリックは持ち手を取り、ぐるぐると花束を見渡す。彼のチェックはすぐさま終わった。
「お待ちどうさん」
 整えた花束をベアトリクスに投げ渡した。片手で受け取る。
「ありがとうございました」
 一礼をした。
 くるりと背を向け、コツコツとヒールを鳴らし、ベアトリクスは去っていく。ピアスの飾りが風に揺れて輝いていた。

 再び到来した静寂が、セドリックの頭を冷やしていく。
 彼女にバラを渡してしまった。滅多にないものを見たせいだ。白いペンキで塗られた壁に、剥げた色を見たせいだ。
 もしも、もしもあれが高度な嘘で、バラがあの男の手元へ行ってしまったら。考えるだけで血管が暴れそうだ。考えない。考えない。
 そもそも、それを気にしていたらキリがない。一般人のふりをした誰かが、すでに彼のもとへバラを届けているという可能性だってある。この土地に縛り付けられている以上、彼の支配の上にあるのは憎たらしくも確かなことだ。この土地の外だろうと彼の蜘蛛糸は広がっているのだろうが。
 宇宙の果てだとか、世界の始まりだとかに想いを馳せる方がよっぽどマシだ。考えたところで、底は見えない。
 バラの香りはもう十分で、心を癒すものにはなりえない。余計なことを考える頭の空白を除くべきだ。バラの補充でもしようと、セドリックは錆びたガーテンゲートを足で開け、いばらの要塞の中へ入っていった。