第9話「逆転」

 14年前、私は10歳だった。あの日は確か、ガラスの嵌められていない四角の窓の向こうに、月がぽっかり浮かんでいたのを覚えている。

「兄さん」

 コンクリート造りのビルの中だった。彼は私を強く抱きしめていた。私は彼の体の向こうから目を離せなかった。壁や床に、刃を斬りつけたような跡。そして血を流す複数人の大人たちが倒れて、呻いている。何も言わず、動かなくなった人もいた。
 彼は私の頭を胸に押し付けた。視界が真っ黒になった。
「大丈夫、大丈夫だよヒガン」

 私がアビリティを獲得したのは10歳の時だった。両親とはぐれ、ロクでもない非合法の組織に囚われてから1年後のことだった。兄、イチシと出会って1年後のことだった。

 下水を泳いでいるようなどうしようもない生活で、彼だけが寄る辺だった。私が蹴られて血が止まらなくなったときも、彼がずっとそばにいてくれた。

 リーダー格の大人が、彼を連れ去ろうとした。違うチームの人手が足りなくなったからだと。それが嫌で、嫌で、リーダー格の大人に、泣いて縋り、蹴り飛ばされて、蹲り、また足を掴んで、放り投げられた。彼が遠くに行ってしまう。
 意識が離れた。目を覚ましたとき、私からは4本の刃が生えていた。

 声が私の頭に降り注ぐ。
「お前があいつをやっつけていなければ、俺たちはきっとドブに捨てられていたよ」
 彼が頭を撫でる。そして体を離し、私と目を合わせた。涙でぼやける視界に、彼の目がくっきりと見えた。じっと見つめた。すると、世界に私と兄しかいないように思えた。見つめた。
「ヒガンなら大丈夫、大丈夫だよ」

「さあ、逃げよう」

 強く手を握って、二人で組織を逃げ出した。
 どうして私はそのとき、彼の手が震えていたことに気づかなかったんだろう。

     ◇

 マルアハは避難シェルターに近づいていた。早く片を付けなければならない。ロビンは大丈夫だろうか?……余裕はない。今は、目の前の脅威を片付けることが全てだ。
 ヒガンは走る。任せられた役割を果たすために。他ならぬ自分に、委ねてくれた仕事を。

 マルアハが建物をえぐった爪痕を隣に、見上げる首が痛い距離に迫った。
 マルアハは動こうとして、もたつき、腕で体を支え、倒れて、起き上がりを繰り返している。ジウのアビリティがマルアハと拮抗しているのだ。ただでさえ膨大な魔力を必要とするアビリティを、長時間使うのは大きな負担となる。勝負は即座に決めなければならない。

「“見て”」
 刃を振り上げた。シュルシュルと、その4本の刃は絡まり合い、そしてひとつになる。一本の太刀となった。終わらせる。

「“見て”!!」
 振り下ろされる紫の一太刀、切っ先が婦人の腹にめり込む。

     ◇

 戦の音が遠くに聞こえる。ロビンは目をゆっくりと開いた。

 硬いベッド? 石のような。ずり落ちる。
 自分は一体何をしていたか。頭がぐわんぐわんとする。視界はゆらゆらと、回転の名残を残す。回転……ああ、思い出した!
 「体もイシキもぶっ飛んでやがる。ハハハ!」

 なんとか起き上がる。腕や足を曲げてみる。……骨は無事だ。擦り傷、打撲はあれど、ほとんど無傷と言っていい。正直死んだかと思ったのに。

 理由は飛ばされた直後。咄嗟に、ほとんど本能的にロビンはアビリティを発動した。建物を掴み、掴み、掴むことで、吹っ飛んだ衝撃を軽減したのだ。
 しかし、今、この無傷の理由にロビンの興味は向かない。

 マルアハは遠い。そこそこに飛ばされたようだ。
 きっと二人はマルアハを片付けにかかっている。一刻も早く戻らなければ青いリングは消失する。あのリングは他のマルアハにも存在する部位ではある。しかし、一度手にしたものを諦めるほど、大どろぼうは清くないのだ。
 今すぐお宝の元へ飛んでいきたい。
 街を見る。ビルの隙間からマルアハが見える。

 さっきは己が手に振り回されてしまったが、今度こそ柔軟に使いこなす。欲望という追い風に背を押されるのは常であるが、それで崖から落ちてしまえば意味がない!欲望を乗りこなせ。すれば全ては掌の中だ。欲しい、欲しい、欲しい!ならば、お宝の元へ「飛んで」いこう。ああ、さっきは飛ばされてしまったが、今度は己が己を飛ばしていけばいい!
 大きな欲望に力が呼応する。足から、いや、その下からじわじわと力が噴き出す。

「“掴め”!」

 黄金の手はロビンと同じくらいの大きさだ。右手を、黄金の手を押し出す。放たれたそれは向こう側、街路の脇、一つの街灯を掴む。
 そして、ロビンの体はそれに引っ張られた。黄金の手をフックにして、バネのように飛ぶ! スピードに身を任せ目の前には掴んだ街灯。ロビンはぐるりぐるりの逆上がりで街灯の上に立つ。

 そして次は「“掴め”!」5階建てのホテルのベランダ、飛び跳ね「“掴め”!」寂れたビルの屋上を走る。右手がだるい。左手を使えばいい。飛び降り、「“掴め”えっ!」黄金の左手! 今度はぐん、と遠く、10階辺りのバルコニーを掴む。
「ハハハハハハハハハハ!!!」

 その身を飛ばした。凄まじい風圧も獲物を前にしたロビンには些細。そういえば、左手を出したのはこれが初めてだった。もしかしたら、これがイノセンスの言っていた暴走状態なのか?

 青空の下を見る。マルアハは回らない。ジウがなんとか踏ん張っているのだろう。
 お宝が消える前に! 大勢の命だって危うい位置にマルアハはいる。だからどうした? ロビンは心底楽しんでいた。
「“掴め”っ!」
 15階屋上。
 どんどんお宝は近づいてくる。口角が自然に上がる。

 その時、目の前、婦人の上半身。マルアハはぐらりとバランスを崩した。高音の叫び声。ロビンは耳を伏せる。見えていたマルアハの上半身が下がりビルに隠れる。一体? 走る。ビルに邪魔された全貌が見えてくる。覗き込む。
 舞い上がる砂埃、彼女の下半身は斜めに削ぎ落とされていた。紫にしなる一房の刃。ヒガンだ! このままでは遅れをとってしまう、その前に。

「“掴め”!!!」

 大きな一つの黄金の手が現れ、そして、放たれた。
 再び、青いリングは大どろぼうの手中。握り締めた黄金の手へ、ロビンは体をふっ飛ばした。

 マルアハの体を斬り飛ばすことで心臓がヒガンの射程範囲に入る。トドメを! その時、マルアハの頭に、何かが飛んでくるのが見えた。

「っロビンさん!!!!」

 生きてた、よかった。なら、心臓を突いてはいけない。
 ヒガンは髪束を四方に伸ばす。そして。その一から四となった刃でマルアハを抱きしめた。
 刃の抱擁。全力。先ほどのキルシュと同じだ。少しずつ刃が体に減り込んでいく。マルアハは痛みに哭き叫ぶ。
 しかし、そんな痛みよりも頭上。光輪を掴まれるなど、それこそ、彼女らにとっては脳みそを掴まれているのと同義なのだ。

「テメエが持ってるなんて勿体ねエ!! おれによこしやがれーーーーッッ!!!」

 掴まれた青いリングが、グ、グ、とロビンの手の方へ動いていく。マルアハはもがく。もがく。もがいた。忘れたくない。自らのメモリは自らのもの。自らがある理由。忘れたくない。自分が生まれた意味を!

 キンッと高い音がして、青いリングはマルアハの頭上を離れた、そして、大どろぼうの手中にそれは収まった。
 
 マルアハは悲鳴をあげた。短く、細い悲鳴を。そして、ぐらりと倒れた。
 そして、もう動かなかった。

 引っ張る力の余韻にロビンは吹っ飛ぶ。15階屋上になんとか背中で着地、勢い余ってそのままグルグルと転がっていく。がしゃん、と壊れかけの柵がロビンを留めた。
 己の右手を見る。大きな黄金の手が重なった己の手の中。
 ロビンの背丈と同じくらいの大きさ。フラフープのようだ。青いリングがそこにある。

「ッッッたぜーーーーー!!!!!!!」

 ほしいものを手にいれた子供の叫び声だ。ビョンビョン跳ねて、駆け回りたいくらいだ! だが、全身が痛くて動けない。それすらも面白くて大笑いしながら、ロビンは青いリングを見つめる。

 ドロリ、と青いリングが溶ける。心臓のときと同じだ。
「またかよ!! クソッまだ楽しませろ、お前のことが知りたいんだよっ! “掴め”え!!」
 青いリングを手中から逃さぬよう、左手にも黄金の手を出して、両手で蓋をし握りしめる。
 瞬間、手の中から、何か、何か冷たいものが入ってきた。それは体の中へ流れ込む、いや、体を伝い、違う場所へ。もっと奥深くに。何かビジョンが入り込んでくる。

 ロビンは意識を失った。

     ◇

 目を開ける。体が……痛くない。これは、夢だ。少々頭にモヤがかかっているが。
 暗闇が広がっている。地面はない。まるで、深海にいるような気分だ。
 そして目の前、あの青いリングがこちらを向いて浮遊している。

 声が聞こえる。声?これは声というのだろうか。振動、波紋。分かるのは、「何か」が何かを伝えようとしていることだ。これは、この言葉は。意味は。自分たちの言葉で言うならば……。

『オイシャサマ』『オカアサマ』『センセイ』『オジイサマ』『センパイ』『マスター』『オシショウサマ』『カントク』『アルジ』『オウサマ』『シキカン』『カミサマ』『ソウゾウシュ』

 ああ、これは、あのマルアハの言葉だ。様々な呼び名のイメージ、誰を指している? いや、全部、それは一人に向かっている。この気持ちは、慕う気持ちだ。感情が流れ込んでくる。

 彼女は寂しかった。唯一のその人にもう一度会いたかった。

「おい、誰だ! お前は誰に会いたかった!!」
 ロビンは波紋の方向へ叫ぶ。

『アルジ、センセイ、マスター、カミサマ、カミサマ、カミサマ、カミサマ』

「名を言え!!」

 ジジ、ジジ、と光輪を握った時のような音がした。

「私を奪われてたまるか。滅びてしまえ、お前ら全員」

 女の声だった。
 光輪は自壊した。

     ◇

「ヒガン!!」

 ジウは倒れているヒガンを見つけるや否や、すぐさま駆け寄った。
 建物の隙間、青空、マルアハの体は少しずつ溶けていた。そして、その溶けた魔力はヒガンへ流れ込んでいた。
 そして、彼女も悪夢を見ていた。蓋を閉めた過去が脳に広がっていった。

 二体目のマルアハが消えた。残るマルアハは五体。青空が頭上に広がっている。