第16話「協力関係」


 数日後。昼過ぎ、多少雲がかかっていながらも青空が広がっている。
 大きな窓から入り込むポカポカとした陽光が気持ちいい。思わずロビンは大きなあくびをした。広い廊下を医者や看護師たちが忙しそうに行き交い、ぽつぽつと患者が歩いている。

 ロビン達は、第16地区において最も大きい病院を訪れた。縮毛のオーナーが“色欲”――キルシュが運ばれた病院、ついでに病室の番号までをロビンに伝えている。彼には世話になりっぱなしだ。
 窓の外に目をやる。川のそばで煙草を吸う数人の医者が見えた。

 ロビンの隣をヒガンが紙袋を携えて歩いている。
「付き合ってくれてありがとうございます」
「いいさ。おれもあいつに聞きたいことがある」
「ジウは……どうしても吸いたくなったら先に出てていいですからね」
 彼女らの後ろを、珍しくタバコを咥えていないジウが同行している。
「ちょっとくらいなら耐えられる」
「ホントかな」「ホントですかね」
 あの夜以来、ヒガンは肩の力が抜けているようだ。さすがに、暴走の翌日は世界の終わりといわんばかりの様子だったが。

 廊下を右に曲がり、病棟のいくつかの室名札を通り過ぎる。少しばかり奥まったところにある目的地のドアを、ロビンはガラガラと開けた。
 ヒガンは胸に手を当て、一度深呼吸する。
 そして、二人の背中を追った。

 六人部屋の病室だ。手前の右のベッドには、開かれて散乱した雑誌の海の中、足に大きなギブスをつけた若い男が寝転がっている。真ん中の左のベットでは、老人がノートを開いて日記をつけている。

 そして、窓際のベッド。外の街並みを見ていた男は振り向く。
 入り込む風にアッシュブロンドの髪が靡く。端正な顔つき、どこか自身の体を投げ出しているような、色のある男。伏せた両目を少しばかり開く。
 
「よう、キルシュ。元気?」
 彼の名前はヒガンから聞いている。
「まあまあだ。助かったよ、“強欲”」
「ロビンって呼べよ。それか大どろぼう」
「大どろぼうが命の恩人か。いい話題だな」
 キルシュは片方の口角を上げて、軽口を叩いた。
 パジャマの緩い胸元から包帯がちらりと見える。傷は案外浅かったらしい。あの血の量で? 不思議なこともある。

 ロビンは後ろ、ヒガンを見やった。先に彼女の用事を片付けたほうがいいだろう。どかっとベッド脇の椅子に座った。
 少々ヒガンの前にいたジウも、一歩横にずれる。
 そうして、ヒガンとキルシュの間に妨げとなるものはなくなった。目が合う。気まずそうだ。軽口はどこへやら、キルシュも視線を迷わせる。
 互いに口を開き、ああ、うう、と何かを言おうとするが、なかなか一歩が踏み出せない。

「その、ヒガ」
「こ、これ! お見舞いのお菓子です!」
 一歩を踏み出し頭をぶつけた。思わぬ失敗にヒガンの耳が赤くなっていく。

「あ、ありがとう」
 キルシュはヒガンの手から紙袋を受け取った。
 サイドデスクは看護師や病人からの贈り物で埋まっている。紙袋はひとまず腕の中に抱えた。
「それでさ、あー、ヒガン、えっとぉ……」
 なんと言い出したものか、キルシュは二の足を踏みに踏む。
「歯切れ悪いな」
 ついにはゼリーを頬張るロビンに茶々を入れられる始末だ。
「うるせえ!つか俺の食うなっ」
 ロビンはサイドデスクのゼリーをポイと口の中に入れては、ポイと殻をそばのゴミ箱に捨てていく。
「ジウも食べる?」
「いらない」

 彼らのやりとりに、ヒガンの頬がどこか緩んだ。その表情をキルシュは横目で見る。
 彼女はロビン達とはよく打ち解けている。自然体でいられるのだろう。
 寂しいと、キルシュは思った。自分はこの輪の中に入れない。
「……あのさ、ヒガン……」

「はい」
「…………悪かったよ」
 芝居がかった仕草はなしに、どこか慣れていない様子でキルシュは頭を下げた。
 ヒガンは動揺する。謝罪をすべきは自分で、まさか謝られるとは思っていない。

「踏み込みすぎた。初対面でやることじゃ、なかったな」
 キルシュはシーツの皺を見つめる。
 謝罪など彼はしたことがなかった。過去に経験があったとしても覚えていない。

「初めてだったんだよ。暴いたやつが苦しんだの。よく分からないけど……苦しいのは、良くないよな。苦しめるのは良くないことだ。気持ちいいことじゃない……とにかく、悪かった」
 間違えたことをした気がした。胸に滞留する感情になんとか言葉を与える。

 ジウは窓の外、風に揺らぐ木の枝を見ている。ロビンはゼリーを3個も口に詰め込んで、もくもくと咀嚼していた。
 ヒガンは彼のつむじを見下ろす。

 彼が、とても幼く思えた。
『我慢をすることは楽しくないことだ。ありたいようにあれないことは苦しいことだ』あの夜の、彼の言葉を思い出す。
 彼の謝罪を聞いてわかった。この言葉は“暴く”ための言い訳ではない。彼は本当に、そう信じているのだ。
 ベネディクティンという目的があれど、あれは善意の行動ですらあった。
 彼は人を知らない。

 だが、少しだけ、胸の重みが軽くなった気がした。

「…………いえ、私も、同じことをしたから」
 先よりも言葉がすうと口から出せる。
「同じこと?」
「私、やりたいからやったんです。貴方と、同じ。ごめんなさい」

 溢れ出した欲望は早速牙を向ける先を探していた。キルシュは自分を見ていない、ベネディクティンを探していた。それはなんだかいやだったから、切り裂いてみた。

「あ、謝るなよっ!」
「痛いのは、よくないことですよね」
 それはそうだ。キルシュは困ったように眉を寄せる。
「で、でもさあ、俺気にしてねえし、菓子ももらっちまったし。いいよ!」
「ほ、本当に」
「もう謝るなよ? ほら!仲直りの握手しようぜ」
 あっさりと終結してしまった。ヒガンはどこか呆然とする。
 言われるがまま手を差し出すと、キルシュが手を握った。

 ……しかし、握手にしては時間が長い。握って、離さない。ヒガンはちらりとキルシュを伺う。
 キルシュの青い目が下に動く。左上に動く。そして、モゴモゴと口を動かす。

「なあ……」
 キルシュの口が閉じる。『言っていいのかな?』『でも聞きたいな』『このままビミョーな感じは耐えられない』『我慢できない』『言っちゃえ!』『言っちゃえ!』意味のない脳内会議の決議が出た。

「…………俺のこと、許してくれる?」
 キルシュは上目遣いにヒガンを窺った。

 それは色男の常套句、というよりも、飼い主に叱られた犬の仕草のようだった。
 憎きかな少量のときめきには流されない。

 困り眉のまま、小さく口角を上げた。
「……少しだけ、待っててください」

 衝撃がキルシュを貫いた。
「マジか……俺、あんたと気まずいままはいやだ……!」
「違います!気まずいままじゃないですよ」
「はっ、よかった」
 キルシュはボスンと上半身をベッドに倒した。
「飲み込んでいる途中なんです。許すって、まだ言えないだけ。でも……」

 ピーチチ、と小鳥の声が聞こえた。

「改めて、よろしくお願いします。キルシュさん」
「呼び捨てでいいよ。よろしく、ヒガン」

 今度はヒガンが手を少しだけ、強く握った。キルシュはそれが嬉しかった。ようやっと彼は握った手を離した。

     ◇

 ゼリーを飲み込んだロビンが口を出す。
「じゃ、今度は俺からの話だ。キルシュに頼みたいことがあってさあ」
 嫌な予感がする。
「…………俺は戦わないぜ?」
 マルアハの下で彼がビクビク震えていたことはヒガンとジウから聞いている。そんな彼を戦線に出すほどロビンは鬼ではない。
「戦わないでいい。違うことを頼みたいんだよ」
「なんだよ」

「他のナナツミの居場所を調べてくれ」
 ロビンは背で椅子を後方に倒し、左のつま先でゆらゆらとバランスを取る。
「……そうきたか」


「マルアハは一定の魔力量に反応する。俺たちナナツミは魔力をだいぶ吸っている。想定しないタイミングでマルアハが動くのは困る」
 窓辺のジウが一言加える。彼の言葉を脳内で反芻する。キルシュは記憶を遡る。

「俺、それ知らないんだけど」
「イノセンスから聞いた」
「それ最初のときに言うべきだろ!?」
「そこそこ彼女は不親切だ」
 ジウが悪態をつくのは珍しい。

「少なくとも、キルシュは交友関係広いだろ?」
 サイドデスクに溢れかえっている見舞品が証明している。

 キルシュは右手で顔を覆い、目を閉じる。
「残りは三人か……」
 ドレッドヘアーの屈強な男、亡霊のように浮遊する黒いヴェールの少女、緑のエプロンをつけた白髪の壮年。
 普段なら駄々をこねても断るところだ。ベネディクティンを探すことで手一杯なのだから。
 だが、いかんせんロビン達には貸しがあるし、ヒガンにこれ以上失望されたくない。
 ぎゅうと目を瞑り、眉間に皺を寄せ、奥歯を噛む。
 そして、覆った右手をどさりとベッドの上に落とした。

「……わかった、片手間にやってやる。いいか、期待すんなよ」
 じろり、というよりはじっとりとロビンを睨んだ。
 しかし、大どろぼうはまず人の言うことを聞かない。
「メトリオとグランドの方もよろしく。眼帯は身なりが良かった」

 シティ・メトリオとシティ・グランド、総合してシティと呼ばれる地域はエンドグラウンドより内側に存在する。グランダリア中央政府による審査で、経済的、社会的地位が高いとされる人々が居住を許される区域だ。

「おい……俺はナンバーなしだぜ?」
 キルシュはロビンの上の耳元でこっそりと言った。獣耳がぴるぴると動く。
 ナンバーとは住所や指紋、様々な個人情報が紐付いているものだ。地区を跨ぐ際にも必要とされるなど、パスポートのような役割も果たしている。
 ナンバーなしではシティへ入ることはできない。基本的には。

「ナンバーなしだろうがシティには入れる。どちらにせよ、キルシュはシティの方にツテがあるだろ?」
「なんでそう思う」
「服装。特にベルトとか、シティにしかないような高級品だった」
 あの夜、血が滲みていくアクアマリンのベルト、そのリング部分に名だたる高級ブランドである『ATLA』の名が刻まれていた。ロビンの観察は一種呼吸のようなものだ。どんな状況だろうと自然とやってしまう。

「……」
 キルシュは苦々しい顔をして黙った。
「トモダチからの貰い物だ。アタリだろ?」
 ロビンはニイと笑う。どうにもそれが小憎らしく「大当たりだ」とは返せない。
「まあ、そうかもな。……シティ方面も当たってやる」
「ありがとな!」

「……キルシュ、私、貴方の人探しを手伝いますよ」
 どこかふっかけられたようなキルシュがヒガンには哀れに思えた。
「いいよ。ベネディクティンは俺にしか見つけられない」
「記憶ないんだろ? なんで断言できるんだよ」

「タマシイで覚えてる。俺は、ベネディクティンと運命の糸で繋がっている。なら、俺にしか糸は辿れない」
 キルシュはいたずらに、立てた小指を下唇につけた。
 ジウがベッドのキルシュを見下ろしている。

「運命の糸とか言うけど、まだ見つけられてないんだろ?」
「うっ」
 ロビンからしてみれば彼の言葉は妄言だ。宝の地図なしに世界をふらつき歩いて、どうして宝を見つけられよう。
「もっと確実な方法探した方がよくね?」
「う、うるせえ。正論言うな」
「正論とは認めるんですね」
「手がかりがねえんだ、仕方ねえだろ! でもこれで見つかるはずだ、そう信じてる!」
「信じて宝見つけられるんなら、世界のみんなが大どろぼうだっつの」
 キルシュは反論できなかった。

 ロビンは揺らしていたイスの前足をようやく床につけた。ガラリとドアを開け、こちらに近づく看護師に気が付いたからだ。

「あのう。そろそろ、面会終了のお時間です」
「分かった。教えてくれてありがとう」
 これはキルシュが言った。いつの間にやらクールな仮面を被り直している。

「あの、連絡先を交換しましょう。次に行く場所はなるべく知らせるようにします」
「ああ」
 キルシュは胸元のポケットを探り、取り出したメモ用紙をヒガンに渡す。

「……いつも持ってるんですか?」
「もちろん。繋がりはたくさん持ちたいだろ」
 キルシュはウィンクをした。
「……ありがとうございます」
 ヒガンはキルシュのことが大体わかってきた。一言で言えば「お調子者」だ。

「んじゃ、お大事に。よろしくな!」
「お大事に」
「本当に、ありがとうございました」
 三人は病室を出る。

 雑誌の男がキルシュに向かって話しかける。
「あんたさあ、マルアハとかなんとか言ってたけど。劇団か?それとも、そういうごっこ遊び?」
「全部マジだよ。狂ってるよな」
 老人は日記を書いている。「この部屋はうるさくて嫌になる」

     ◇

 “嫉妬”のヒガン、“色欲”のキルシュ。“強欲”である己。
 イノセンスの名付けは的外れでもない。三者三様の執着を持つ。
 一定の親しい者に、ベネディクティンという存在に、そしてお宝に。これらの執着が果実を実らせた。

 ではジウは?
 あの夜にこぼした「役目」だろうか。だが、それなら彼はなぜ“怠惰”と名づけられたのだろう。

 病院の外に出て、ジウは颯爽とタバコを咥えた。慣れた手つきで火をつける。
「嬉しそうですね」
「水中から陸に戻った気分だ」

 病院の前の往来は、昼時ということもあり騒がしい。排気ガスの匂い。クラクションの音があちこちから聞こえる。混み合う車の隙間を歩行者たちがひょいひょいと通り抜けていく。

 ロビンは彼の背中に声をかけた。
「ジウ」
「なんだ?」
 振り返る。
「ジウがマルアハを倒すのも、役目ってことか」
「まあ、そうだ。あの話覚えてたのか」
「そりゃな! いつもと雰囲気違ったし」
「忘れてくれよ。なんか恥ずかしい」
「私も覚えてますよ、忘れませんよ」

「信条なんて言うもんじゃないよ。全く」
 バツが悪そうに顔をそらし、歩き出す。彼なんかも、自らを開示するのが苦手らしい。

「やっぱり“怠惰”ってゆーのも変だよな。逆だろ!」
「全然怠けてないですよね」
「…………覚えてないけど、多分」
 こちらを向かずに呟く。

「昔、俺はやるべきことをやらなかったんだ。それでナナツミになった」
「だから役目?」
「今度は失敗できない、そんな気がするのさ」
 タバコの白い煙が一本の線のように上っていき、消えていく。

 病院の正門を出て、左へ曲がる。ヒガンも人混みを歩くのが慣れてきた。

 ロビンは興味があった。彼という川底に何があるのか。揺らがぬ大河の奥底に、『人々が大罪と判断しうる』何かがある。
 彼も「同類」だろうか? どうしても抑えられない激情を、理を狂わせるものが、錆びた宝箱の中で眠っているのかもしれない。
 彼を見上げる。平時と変わらぬ仏頂面だ。
 
 人混みに川の生臭い匂いが混じってくる。
「ジウ、そろそろ橋だ。きっとゴーって川が流れててギュルギュル渦をまいてるぞ」
「面白がってるだろ」
 ジウは目を細めた、些細な変化ではあるが嫌がってる表情だ。
 彼は川が怖いらしい。不死身に今更怖いものがあるのか?

「目を瞑っててもいいですよ。引っ張りますから」
「大丈夫。くだらん話でもしよう。気が紛れる」
「じゃあおれが呪われたツボを盗んだときの話してやるよ」
「呪われたんですか!?」
「いや、叩き割ったから呪われてない」
「物理的な解決法だな……」
「盗むのは相当大変だった。何しろ……」

 喧騒に三人の声が紛れていく。