第18話「抗う者」




 エンド・グラウンド第19地区、南東。第18地区に寄った丘陵地帯。

 第19地区を見下ろすホテル、その一角の会議室。百名は用意に入るであろう広さの部屋であり、装飾の数々からは主張は控えめながらも高級感が漂う。
 連なった窓の向こうには青空、細々とした街並みと、ウシのマルアハの存在が目視できた。

 この広大な部屋に、三人の男がいた。
 足を組み肉厚の椅子に背を預ける、軍服を着た白髪の男——他ならぬ「緑眼閣下」と自陣敵陣問わず渾名されるナダイ大佐。
 その側に立つ部下らしき兵士。ナダイの腹心であり、この密やかな会談を妨げぬよう静寂を身に宿す。
 そして、椅子に腰掛け、肘をテーブルの上に乗せた男。清潔感のある短髪で、スーツはよく手入れされている安物であった。目を瞑っているのは居眠りのせいではなく、目に病を患っているためである。

 兵士の操作したノートパソコンには水色の車が映されている。上空、小型無人航空機によるリアルタイム映像である。
「ターゲットは第19地区へ入りました。このままウシのマルアハの元へ向かうと思われます」

「閣下、またマルアハは動くかな?」
 世間話のような軽さで安スーツの男は言った。
「動く」
 ナダイは断言する。ハリネズミと婦人が起動した際、どちらも例の三人が現れた。

 監視カメラや各種放送局が捉えた奇妙な三人組の映像はナダイの手の内に集められた。
 『カメラの記録は消えている』いつだか中央人の小太りは大々的に吠え上げたがそれは異なる事実だ。消えたのではなく、真実はナダイの情報操作により衆目から奪われたと言った方が正しい。

 安スーツが側に置いてあった茶を啜り、手元に置かれた紙の束を指で弄んだ。
「皆胡散臭い経歴ばかりだね」
 内容は、部下が先ほど読み上げてくれたから頭に入っている。

「整備士の彼はだいぶ長生きだ。彼のものらしき記録は百年以上前からあると」
 《ナンバー》とは、個人情報を個人個人の番号に結びつけたものであり、パスポートの役割も果たすものだが、これは、マルアハがこの地に降り立って以降に発足した制度だ。

 それ以前、国家が複数存在した時代では国を跨ぐ際、ある身分証明書が必要とされた。
 百年以上前の彼の書類、添付されている写真には今と変わらない容貌の顔が写されている。

「この女性も……」
 写真のアカツキ人女性は大人しそうな顔をしている。
 職業は飲食店の店員。両親は15年前のマルアハ始動で生死不明。
 その後、1年間の足取りは掴めなかった。
 空白の1年が過ぎ、彼女は兄のイチシと共に、再び社会へと顔を出す。
 それから暫くは目立った動きはなかった。ある一点を除いて。
「一緒に暮らしていた兄が、切り刻まれて殺されてる」
 犯人は捕まっていない。だが、彼女の能力を知れば、真相は明らかだ。
「現場で、彼女の魔力は検出されなかったらしい。おかしな話だ」

「あれらの魔力は既存の手法では検出できない」
「検出できない?」

 説明を求めているだろう男に、仕方なしという様子でナダイは応じた。
「我々は、魔力を魔術に変換する。己の魂というものによって」
 現時点における魂研究の主流の論だ。
 ナダイは指を畳んだ手のひらを仰向けにする。開く。その手のひらに小さく、青い炎が灯っている。これが彼の魔術であった。

「しかし、あれらの出力は我々のものと異なる。研究者共がいうには、何か“フィルター”がかかっているらしい」
 黄金の手、不死、紫の刃。
 これら以上に攻撃的な魔術はいくらでも存在する。
 それでも、そのいずれもマルアハに傷一つつけられなかった。ナダイの青い炎も同様である。

「……もしも、それを解明できたならば、フィルターを我々も得られたのならば」
 鋭い眼光の緑眼が遠くを刺す。
「あれの手を借りずとも、己らでマルアハを討伐できようが」
 ナダイは己が手を握る。青い炎は手の内に消えた。

「君としては、そうしたいところだよな」
 男は笑った。あのナダイが夢物語を口にするくらいには、今回の決定は自らの敗北を認めるようで悔しいのだろうと理解した。
「こんなろくでなし共にどうして星を委ねられる」
 ナダイは書類に添付された、獣耳の子どもの写真を見下ろした。
「君はその子、特に嫌いだよな」
 書類に書いてある名前はこうだ。『ロビン(自称大どろぼう)』

「この子はとんでもない数の窃盗をやってる。シティにも入り込んでいるね」
 羅列された盗品一覧の中には、セント・グランド中央博物館所蔵——カルムナエの硬貨と書かれている。そのほかにも多数。
 獣耳。カイィ族であればシティへは入れないはずだ。おそらくこまごまとした余罪がたくさんある。
 ナダイが黙りこくって写真を睨んでいるものだから、安スーツの男は禁断の話題に手を出した。
 少々の遊び心があったことは間違いない。

「この前のイスカちゃんの件はご愁傷様」
「……」
 彼は、いつだか緋色の歌姫――イスカがつけていた首飾りを、かの大どろぼうに盗まれた大事件のことを言っている。
「あの首飾り、君が彼女にあげたやつだろ?その後どうしたんだ」
「私が買い戻した」
「まあ、あの子演技とかできるタイプじゃないし……逆に歌の売れ行きは良くなったんだろ?丸く収まってるさ」
「醜悪な失態だ。恥を知れ……」

 安スーツはロビンの写真をクリップから外した。
 写真をじっくりと見てみたが、ぼやけた視界は人物の輪郭を掴めない。
 くせのあるオレンジ色の頭髪。
(大泥棒が抱えていた、あの赤ん坊か……)
 11年前の春の日を思い出す。
 安スーツはかつて、この子どもと会ったことがあった。
「この子、あの大泥棒ディエゴが育てた子なんだよ」

「……あの、英雄気取りのアウトロー」
 ナダイは顔をしかめた。彼についても、いい思い出はない。
「そうそう。なにかも縁かもしれない」
「縁も糞もない。あの男は結局オレの手指にはならなかった」
「仕方ないよ。私が話をしに行ったとき、彼は育児中だった。で、そのときの赤ん坊がこの子だ!」
「……」
 ナダイは無言だったが、安スーツはこれが何を意味するのか知っていた。
『だから何だ』

「この子は、いったい彼から何を"継いだ"のだろうか……」
 安スーツはこれから対面するだろう、そのぼんやりとした輪郭の子どもに想いを馳せた。

「空想に耽るのは後にしろ」
 ナダイは安スーツへ苦言を呈した。
「ああ、やることは分かっているよ。言われなくともね」

 安スーツの男は今から何を言い渡されるか、おおよそ想像がついていた。
 研究所は思考錯誤の道中。マルアハへの攻撃が通じるようになる、そのフィルターを生み出す「特効薬」が完成するとも限らない。その一手のみに拘っていれば、他の者に先手を取られる。

 安スーツには目指すべきところがあった。夢と言い換えていいかもしれない。
 そのためにできることは何だってやるつもりだった。

 ナダイは表情を変えず命じた。
「ビンガム。あの力を奪え」
「交渉で?それとも脅迫で?」
「どちらでもいい」

 安スーツの男、ビンガムは目を薄く開いた。瞼の下から色素の薄い緑眼が現れる。
 ナダイが大佐という地位まで上り詰めたのは彼の働きあってこそであった。ナダイがそれを口外し認める日は永遠に来ないだろう。

     ◇

 ガタガタと車が揺れている。道が悪い。ついでに水色の車はボコボコだ。
「ジウカーがまさか生きてるとは思わんかったな」
「はい」
 婦人のマルアハとの戦闘の最中、行方不明になったかと思われたジウの車は辛うじて発見され、ジウ自らの手で修理された。外装を整える時間はなかったため、おんぼろな見た目のままではあるが。
 ついでにロビンから「ジウカー」の渾名を与えられた。

「あと30分位で着く」
 一本道が続く。

 ロビンたち三人はシティ・メトリオを経由してエンド・グラウンド第19地区、ウシのマルアハの待つ地へ向かっていた。
 第18地区は険しい山々を含む地区である。それよりは第19地区のほうが容易くたどり着くことができた。

 しかし、第16地区から第19地区へ最短距離で向かうには、シティ・メトリオを経由しなければならない。
 メトリオとエンド・グラウンドの境ではナンバーの確認が行われる。ロビン達三人はエンド・グラウンド出身のナンバーを持っていた。普通、シティ・メトリオへはエンド・グラウンド出身の者は入ることができない。

 そこで、ロビンの「ツテ」でシティ出身を偽る三人のナンバーを作ったのである。そうして三人はメトリオを無事経由し、第19地区へ入ることができた。

 ヒガンの心中は正直複雑であった。ヒガンはロビンのように法を無視しきれない。ジウはどう思っているのだろうと彼の横顔を伺うが、平時と変わらぬ無表情である。多分、何も思っていないだろうと彼女は察した。そしてそれは正解だった。

 行き交う車も少ない公道を、ジウの車は走っている。
 音質の悪いラジオがニュースを流している。『第19地区ではマルアハの魔力を検知し、避難を開始しています』
「もう!?」
 思わずヒガンは声を上げる。

「いいや、マルアハが動いている様子はない」
 ロビンは窓から身を乗り出し、マルアハを観察する。丘の中腹を走る車からは、船のような形をしたそれが鎮座しているのが見えた。
 車中に体を収め、ラジオを聞き流し頬杖をつく。
「予測の感度って、こんないきなりはねあがるもんか?」
 以前までのケースはここまでの余裕があっただろうか?『緊急、緊急』と、街中のスピーカーが、列車の車中のアナウンスが繰り返していたことを思い出す。

「意図を感じる」
 ジウは呟いた。
「誰の……?」
 助手席のヒガンは不安げに尋ねる。
「……まあ、気のせいかもしれん」

「急ごうぜ。何にせよ、おれ達のやるこた変わらないだろ?」
 ロビンは笑った。違和感の原因にある程度の目星はついていたものの、それに大して興味はない。それよりもお宝を盗むことこそが第一なのだ。

     ◇

 ロビンらが第19地区へ向かっていた頃、そのメルトライン最前線の街。

 デニスら、グランダリア東部部隊は避難しそびれた者がいないかチェックしていた。その命令が出たのは早朝。前代未聞だ。「いつだって手遅れになってから救助が始まる」とは、先人の誰もが口にしていたのに。

 何かが変わっている、とデニスは思った。あのハリネズミのマルアハが沈んでから。
 不滅の侵略者は他のいかなる生物と同じく死を知っているということ、そして今回初めて、大まかなれどマルアハの起動を十分な余裕を持って予知できたこと。両者共に大きな前進である。
 ついに我が軍はマルアハに対抗する力を得たのだと、そう思った。それしか考えられなかった。

 起動すると予測されている時刻が近づいている。
 屋外拡声器による避難誘導が繰り返し放送されている。人々のざわめきはすでに鳴りを潜めていた。
「避難してねー人いませんかーい!!」
 デニスはスピーカーを片手に街の様子を確認する。とはいえ、流石に全員避難しきったろう。自分もさっさと避難所へ戻ろうと、ふうと息をついたその時だった。
 目の前、よたよたと避難所の方向から老人が近づいてくる。

「どうしたジイさん。忘れモン取り行く時間なんかねえぜ」
「違う! 人がいないんだよっ!」
 デニスは目を開く。
「他の避難所には?」
「いない!ここらの避難所には全部聞いた!あいつは持病持ちだ、遠いとこにはいけねえ。多分まだ家にいる!」
 デニス得意の軽口は消滅した。
「家はどこだ!?」
「南東第二公園近く、庭付きの家!」
 土地の限られたここエンド・グラウンドでは庭という空間など稀少、場所の当たりは早々につく。遠くはない。近いわけでもなかったが。
「あんたは避難所で待ってろ!」

 言いながらにもデニスは走り出した。そして、走りながら後悔した。己の命が崖の淵で揺れているような気がしたからだ。

     ◇

 街を駆ける。駆ける。駆ける。車を拾う方が良かったか? 余裕も時間もありはしない。
 自分が避難所に戻るには十分な時間だった。避難者を助けるには限られすぎた時間だった。
 南東第二公園と呼ばれる小さな公園を通り過ぎる。粗末な街路樹を横目に右手側、デニスは庭のある家をようやく見つけた。

 緑の芝生、その上にポロシャツと杖。老人が倒れている。
 汗を向こう風に飛ばしながらデニスは駆け寄った。
「ジイさん!」体を揺らす。老人は細めていた目を開いた。

「た、助けてくれ」
 意識ははっきりしているものの起き上がれないらしい。見た限り転んで足を怪我したようだ。
 デニスはすぐさま老人を担ぎ走り出した。
 カウントダウンが始まっている、デニスは分かっていた。無駄口を叩く暇もない。

 この地鳴り、振り返る余裕すらもない。ああたしかに牛のマルアハは目覚めたようだ。

 老人は恐怖に支配されている。
「だ、駄目だ、死んじまうよ、動いちまったよ兵隊さん」
「分かってるよ!」
「間に合わねえ。あいつ、あいつ俺たちの方を見てる!」
 老人はデニスの背で、振り返りマルアハを見ていた。あれの顔と思われるものが確かにこちらを向いている。あらゆる感情の読み取れぬあの死の面が。

 背の老人の泣き言がデニスの焦りを加速させる。
「間に合う! アンタの連れが待ってんだ!」
「すまん、道連れだあ、こんなことなら」
「アホ!! 誰が走ってると思ってんだ、ポイっと捨てるぞ!?」
 デニスはそう言ってずり落ちそうな老人を背負いなおした。

 今すぐ老人を投げ捨て逃げたい気持ちはある。むしろ大分あると言っていい。
 しかしそれはできない。他ならぬ自分が、誰かの命を選び捨てることはできない。
 デニスはエンド・グラウンドに生まれた。将来的にマルアハに滅ぼされるよう、国から要請されている人々の内のひとりだった。
 対マルアハ連合軍に入った理由もそうだ。
 死を目前にしたエンド・グラウンドより内側、シティ・メトリオに位置する街の住居が与えられるというその一点によるものだった。

「あ」

 声色の変わった老人の声。嫌な予感がする。
「投げ」
 デニスは咄嗟に振り返った。目を見開いた。

 牛のマルアハ。
 船のような身体と、牛のような面を浮かべるマルアハ。その船尾には三日月型の尾が生えている。だが所定の位置にそれはない。

 三日月は投げられていた、他ならぬ自分達に。

 デニスは後悔した。二人とも死ぬのなら何もかも意味がない。老人の声を裂き風切り音が聞こえる。
 意味がない。己の道程が脳に甦る。なんのために? 捨てられた人生なら、どうせ死ぬなら、何か一つくらい救えたってよかっただろうが。目の前が暗くなる。足音。
 足音?

 眼前。

 ——それは、赤の巨躯だった。
 逆光に闇を孕んだ大きな背中。風に飛び舞う黒のドレッド。
 燃え上がる炎のような熱気が空気を揺らす。

 構えられた両腕から、岩の右拳が放たれる。肉体の捻りに生み出された力のみならず、全身を覆う熱気その全てが拳へ集う。
 大きな口が動いていた。それが「“怒れ”」なのだと認識したのは、拳が撃ち込まれた後だった。

 三日月が飛ぶ。
 文字通り飛んだ。7mは悠にあろう、鉄の如き重量を持つその物質が。
 そしてそれはウシの顔面に打ち当たる。衝撃、勢いままに巨体が後方に叩きつけられた。

 ずん、と低い音が聞こえていた。大きなものが落下する音が聞こえた。それはマルアハを受け止めたビルが衝撃に耐えられず我が身を崩壊させる音だった。
 デニスはあんぐりと口を開けていた。老人もこれでもかと目を見開いていた。

 兵士が彼を知らないはずがない。彼は公式には敵だった。
 危険人物。犯罪人。中央——グランダリアの支配を破壊せんとする、噂の「革命軍」。
 その長の名前をとって、それは「アトラス革命軍」と呼ばれていた。

「あ、アトラス……ッッ!?」
 口から唾液のように言葉がこぼれ落ちる。

 男は振り返る。何もかもを覗き込むような金色の目。
「行け!!」

 彼の怒鳴り声がデニスの背を押す。
「っ!!」老人を担ぎ直し、脱兎のごとく走り出す。

 駆ける。駆ける。駆ける。デニスは駆け抜けていく。炎を分け与えられたかのように、体に熱が戻ってくる。
 マルアハの追撃は?そんな恐ろしさより、興奮の方が遥かに大きい。

「ジイさん!生きてるか!」
「あ、ああ」
「なあ、生きてりゃいいことあんだろっ!」
「あ、ああ。ああ! アイツに話してやらねえとな。こんなバカな話あるもんかよっ!?」

 デニスと老人は大笑いした。「英雄はマジにいた」など、誰に言おうが馬鹿にされるに違いない。

     ◇

 アトラスは背後、足音が遠くなっていくのを確認した。

 道の側に留まっていた軍用車がアトラスの元へ寄る。寄りながら、運転席の部下が喚き立てていた。
「ヒヤヒヤしましたよッ! とっ捕まったらどうするんですか、ありゃお国の軍団ですよ!」
「捕まらねえ。あれは仲間だった」
 彼に言わせればそうだった。「抗うものこそ我らが仲間」と、それこそ彼の信条である。

 アトラスはマルアハを睨む。砂埃の向こう、墜落したマルアハはゆっくりと身を起こそうとしている。
 どすんと軍用車の中に入り込む。
「このまま戻っていいんすね」
「いい。奴らには奴らの作戦がある。それが失敗したんなら」
 ばん、と拳を己の手に打ちつけた。

「もう一回ぶん殴ってやる。百年の抑圧、その怒りを込めてな!」