第8話「危機一髪」

 マルアハは地上を見下ろす。
 一つ、脅威を取り除くことができた。だが、あの忌々しい、記憶を抹消する魔力、その主は?
 未だ警戒態勢。方向、そちらを向く。
 身体機能は修復途中だ。それでも、脅威は須く潰さなければならない。

 交差点。
 ヒガンとジウはそれを見上げていた。ヒガンは彼のアビリティ発動の妨げにならないように、視界に入らない背後にいる。刃は発動している。
 彼がマルアハの動きを止めている隙に、自分があの怪物を切るのだ。
 ジウは目を開く。

「“忘れろ”」

 マルアハは異常な魔力を再度感知する。同じ轍を踏みはしない。
 即時、その方向へ、地を抉る大腕を振った。

 民家が、ビルが、コンクリート造りの店が青空に舞う。
 小石がジウの頬を掠る「しまった」口を衝く。
 マルアハは水を手で掛けるように、建物を掬い、投げ飛ばしたのだ。それは人々の営みを収めるものではなく、ただ暴力的な硬さと重さを持った塊として、二人の頭上を覆う。

 呟いた。
「“見て”」
 ジウの背後から現れた、瓦礫の山々を破壊していく4本の刃。縦横無尽、鞭のようにしなり、目に見えぬ速さでコンクリートの塊を細切れにしていく!
 これがヒガンの力だと認識し改めてジウは驚く。いや、驚いている場合ではない。自らも役目を果たさなければ。
 咄嗟に頭を守るため覆った腕を解き、瓦礫の向こうを見据える。……見据えるが目前、瓦礫の雨。空の青もマルアハの白さえ埋もれている。
 襲いかかり砕かれていく瓦礫で、上手く敵の姿が見えない。アビリティの標準がうまく合わない。
 
 投石の猛攻、そしてとどめとばかりに投げ飛ばされた5階ビルを、ヒガンは真っ二つに切り裂いた。
 ようやく視界が開いた。その先、ジウは目を見開いた。ヒガンは息を飲んだ。

 光を集め点滅する、青い光輪を見た。

「ッ“忘れろ”!!」
 ジウがアビリティを発動したそのとき、ヒガンは交差点の向こう、もう一つの絶望を見つけてしまった。

     ◇

「クソッ!!」
 キルシュは懸命に人のいない街路を走っていた。影が近づいてくる。避難シェルターを指す看板を頼りにして道を進む。先ほどの暴風はなんとか地面に縋りつくことで難を逃れた。今生きているのが全く不思議で一周回って笑えてくるが、笑うエネルギーも残っていない。
 
 マルアハが建物をなぎ倒す音が聞こえる。そして、強い追い風に背を押された。
 大きな衝突音。
 一体!?キルシュに立ち止まり振り返る余力はない。
 頭上を大きな影がよぎる。
 「ッ!!?」キルシュは咄嗟に飛び退いた。

 目前に大きな塊が落下した。見覚えのある真っ黄色の壁、バカな店主が塗ったバカイエロー。ひしゃげた窓。先ほどまで寝転がっていたあの部屋は、確か4階403号室……。
 ゾッとするどころではない。つむじから生気がすっぽ抜けた。

 ドン、ドンと衝突音が続く。ああ、これは建物をブン投げている音だ!にじむ涙も鼻水もそのままに、キルシュはホテルの残骸を迂回し、再び全力疾走する。
 何が“婦人”だ!それならお淑やかにいるべきだと心で悪態をつく。祈るしかなかった。あんな化け物に叶うはずがない!

 今度はビルの最上階が頭上を通り抜けていった。お次に民家。屋根が途中で捥げて、落下した。咄嗟に道路の脇へ飛び込み間一髪で避ける。悲鳴まじり、もがくように立ち走り出す。
 喉は灼熱を宿し、取り入れる酸素は酸そのもののように思えた。死にたくない。キルシュはみっともない姿を晒そうがなんだろうが生きたかった。ただ、ベネディクティンに会うために——

 キルシュに思考する余裕はなかった。そして、背後投石するマルアハが、大雑把ながらキルシュの「進行方向の先」をターゲットにしていることに気づかなかった。

 そうして走り抜いた先、交差点。

 視界の左。その紫に染まった髪に覚えがあった。彼女はキルシュから見て右の、遥か上を見て目を開いていた。

 瞬間。身体中の毛穴が開いた。右から、膨大な魔力が展開したのを感じたからだ。

「だめだこれ」と、そちらに視線をやろうとした。その前に紫色の刃が彼を掴んだ。

     ◇

「“見て”!!」

 咄嗟に、目前に現れた青年を自らの髪の刃でつかんだ。「いッ」服の上から体に食い込む。伸縮するその髪は青年をぐるりと巻き、道の端に飛び込むヒガンの元へ抱き寄せる。
 ジウは!手繰り寄せるには間に合わない距離。
 もう一方の髪で、ジウを弾き飛ばした。

 青リングの中央で光が一点に集う。そして、円状に開く。倒れ伏したジウは開けた頭上、白い巨像を睨みつけスペルを唱えた。アビリティの波動。同時に、巨体は魔力を発する。
 眩い光が青年の靴の先を掠る。

 それは至上、混ざりもののない白だ。

 マルアハは屈めた身を徐々に起こしていく。手前から遠くへ、直線の光線が線を描き、そして、天へ吐き出される。
 轟音。地に伏せた大地が振動する。マルアハに敵う力だという、アビリティを持つ三人は、今ここにおいては人間を前にした蟻に過ぎなかった。
 道の中央は白くドロドロに溶けている。高熱で、全てが溶けた。
 光線の残響が轟く。マルアハは反った身を立て直す。彼女の足元、建物の残骸がガシャガシャと音を立てた。
 目下は地獄の再演。これで、これで虫は消し潰されただろう。

 …………地を溶かす熱の名残が頬を撫ぜた。ヒガンは強く瞑っていた目を、開いた。体を起こし側を見る。キルシュは体を丸くして震えている。
 地獄の再演、だが、生きている。
 マルアハは回らなかった。回っていれば、ヒガンの咄嗟の回避も無意味になるところだった。そう、マルアハは再び回転を記憶の大河の底に沈めていた。無論、重ね掛けしたジウのアビリティの効力である。

 ヒガンは身を起こし、すぐさま突き飛ばした向こうを見た。
「ジウさん!」

 粉塵の向こう。
 立ち、巨体を見据える彼がいた。
「“忘れろ”、そのまま」
 再びスペルを口に出した。瓦礫による視界の遮りがなくなれば、標準は容易く合う。

「ヒガン、行ってくれ」
「ッ、はい!!」
「貴方なら大丈夫だ」
 黒曜石の目をマルアハに定めたまま、言葉で彼女の背中を押した。

 ヒガンはキルシュの縛りを解く。そして、駆け出した。肩にかけていた彼の上着に腕を通して。
 ジウはそのまま、ゆっくりと歩き出す。婦人のくびれのさらに上、彼女の顔を見ながら、アビリティをねじ込んで。

「…………」
 一人、置いていかれたキルシュは尻餅をついたまま動かなかった。
 肌に冷たい風が当たって、冷たかった。腕を見る。シャツの袖が、縛られた形で切れていた。ついでに、その下の皮膚も出血していた。血を見たらなんだか両腕が痛くなってきた。
 痛い。なんとか、生きている。
「痛え……」

 へこたれてもう寝そべった。さっきの二人は一体なんだったんだ?あの胸糞悪い夢にいた気がする。まさか本当にマルアハと戦うか? イカれてる!確か……「怠惰」「嫉妬」と呼ばれていたような。
 「嫉妬」の、戦場で必死に息をしているような顔がやけに頭に残った。
 
「…………くそっ」

 今は、あの二人に命運を託すしかなかった。キルシュには逃げる理由はあれど、戦う理由はなかったのだから。