第12話「脱皮」

 短針が12を過ぎた深夜。起動の名残を残す街はぐっすりと眠っている。
 外は少しだけ肌寒い。街灯の下、静寂の合間に途切れ途切れの口笛が聞こえる。流行りのラブソングだ。

     ◇

 ホテル1階。
 ヒガンは毛布から頭を覗かせた。少しだけ冷えた空気が顔を包む。
 今夜は眠れる気がしなかった。悪夢はもう見たくない。少しだけ外の空気を吸いにいこう。このまま目を瞑ったところで、自己嫌悪が体を貪るだけだ。

 隣のロビンはぐっすりと寝ている。大の字に寝ている大どろぼうの頬は子ども特有の丸さをしている。起こさないようにそっとベッドを出る。寝間着を脱ぎ、ハンガーから服を取って着替えた。コルセットは……つけなくてもいいだろう。

 部屋を出る。すぐそばのフロントにはオーナーの片付けの後が残っている。どうにも体が重くて手伝いをすることはできなかったが。これが魔力を吸収した名残か。ロビンもこの状態にあったのだろうか? もしそうであるなら、あんなにも朗らかでいられるのはなぜだろう。
 つっかけた靴にかかとを入れながら、屋外へと出るガラス張りのドアに視線を向けた。

 誰かがそこに背を預けている。
 後ろ姿は中くらいの背丈で、ブロンドの髪をしている。その人が振り向いて、目が合った。
「あの人は」
 扉を開けた。

 アクアマリンの長いベルトが夜風に揺れる。
「なんか運命的だな」
 思っていたよりも低い声だった。
 腕まくりをした白いシャツ、青みがかったズボンのすらりと伸びた足。幼さを残しながらも整った顔立ち。間違いない。婦人のマルアハの足元で出会ったナナツミの青年だ。思わぬ出会いにヒガンは目を丸くしている。
「なんでここに?」
「ああ、トモダチに外へ放り投げられてな」
「え?」
 入り口に背を預けたまま、彼は語り出す。
「俺はそのトモダチから、ペットのイヌのように可愛がられていた。専用のお洋服、ご飯、そして専用のお部屋。だが、トモダチには、あー、夜を約束した人がいたんだな」
 青年の伏せた瞳がヒガンに向けられる。
「そして、問題は俺がイヌじゃなかったってことだ」
 夜風が二人の間を通り過ぎる。
「……」

 青年は首を傾げた。
「ドン引き?」
「いや、あの、周りにそういう人がいなかったので、慣れてないのです。色々」
 出会い頭の彼の文句に意図が見えず、ヒガンはどうにも戸惑っている。
「そんじゃ、もっと身近な話をしよう。あんたはなんでこんな深夜に?」
 改めて投げられた会話のボールをひとまず受け止める。
「……ちょっと、眠れなくて」
「辛いな。眠らなきゃ夜は長すぎる」
 彼の声色は詩的な言葉に比べるとどこかさっぱりしていて、不思議な印象を与える。
「やっぱり運命的だ」
 長い前髪が揺れ、彼の青色の目を覗かせた。
「俺も眠れなくてさ。一緒に散歩でもしないか?」
 
 唐突、美青年との出会い。
 しかしヒガンは知っている。これはナンパだ。何度か経験がある。だが相手は初対面でもなくちょっとした知り合い、ついでにナナツミ。目的が分からない。そしてヒガンは疲れていたし、そもそもそういう遊びは好きでもなかった。

「遠慮します」
 ヒガンは正直に言った。
「えっマジか」
「私、この街の地理を覚えていないので、迷ったら嫌ですし、暗いですし」
「なら、ちょっとだけおしゃべりしない?」
「何のためにです?」
「ああ、怪しまないでくれよ! 同じナナツミだろ? 聞きたいことが沢山あるってコト!」
 彼の飾り立てられた仕草とは裏腹に用件は至極単純だ。ヒガンはようやく納得した。
「なら最初からそう言ってください!」
「スマン。ナンパのクセだ」
 あまり悪びれずに言って、青年は寄り掛かっていたドアから背を離す。

「仕切り直そう。何か飲み物でも買うか」

 奇妙な夜になりそうだ。そういえば、今日は月がぽっかりと浮いている。

     ◇

 ヒガンはホテル入り口、五段の階段の四段目にこじんまりと座っていた。目の前、道路を渡って二つの缶を持った青年が歩いてくる。
「コーヒーと甘い紅茶、どっちがいい?」
「どちらかといえばコーヒーが」
 青年から缶が投げ渡される。それをキャッチすると、手にほんのりと缶の温みが伝わってくる。
「いくらですか?」
「いいよ。お礼だ」
 階段に座るヒガンへ、歩道に立つ青年は向き合ったまま言葉を渡す。
「助けてくれてありがとう。おかげで命拾いをした」

 それは先程のお喋りとは違い、彼女を惑わすものではなかった。率直な言葉にヒガンは目を丸くする。
「そんな、私……でも、傷つけてしまったでしょう」
 俯く。彼を助けるための咄嗟の行動とはいえ、自らの鋭い刃は青年の肌に食い込んだのだから。
「死ぬよりマシだ。おかげで痴話喧嘩に巻き込まれることもできたし」
 青年はヘラリと笑ってみせた。ヒガンの頬もようやっと緩む。青年はヒガンの隣に腰を据えて、好奇心ある子どものような仕草でヒガンを覗き込んだ。
「さて、恩人の名前を聞くのは許される?」
「……ヒガンです。貴方は?」
「キルシュ。呼びたいように。よろしく、ヒガン」
 “色欲”、キルシュは手を差し伸べる。握手なんて久しぶりで、ヒガンには慣れない挨拶の形だ。ワンテンポ遅れて、彼の手を握った。きれいな白い手だ。しっとりとした温かい手が優しく握り返す。
 視線を上げると青い目がじっと自分を見つめていることに気づいた。前髪の隙間から見つめるその目には不思議な魅力があった。引き込まれそうな甘い瞳。ヒガンは目を逸らし、握手を解いた。片手で持っていた缶コーヒーのタブを引っ張り飲み口を開ける。耳が熱い。飲み口を開けるとかすかに湯気が現れる。飲み、口内に現れる苦味が絡まった思考を少しずつ解していく。

「ヒガン達はマルアハを倒して回ってんだよな」
 キルシュは傍に置いていた缶を手に取る。ぽいと投げられた話題に心のどこかでヒガンは安心する。
「結果的には、そうですね」
「結果的には? 他に目的があるのか」
「はい。リーダーが“強欲”の、ロビンという人なんです。それで、欲しいと思ったものが全部欲しいって子で」
「それで、“強欲”は……まさか、青い心臓目当てに?」
 ナナツミが集合したあの空間で、ロビンが「青い心臓」という言葉に食いついていたことをキルシュは覚えている。
「はい。でも二回目は違くて、今度はあの青いリングを」
「ハー! とんでもないやつだな。マジに強欲じゃん」
「フフ、そうなんです」
 なぜか、自分が褒められているのような嬉しさを感じる。
「あともう1人いたよな。あの、オッサン」
「あの人は“怠惰”のジウさんです」
「“怠惰”っぽい?」
「……いえ、真面目な方ですね」
 どちらかといえば彼は働き者で、気配りもきく人物だ。そういえば、彼のナナツミのタイプが怠惰と名づけられた理由はさっぱり浮かばない。
「そこは違うんだなぁ。どんなアビリティなんだよ」
「対象の記憶を忘れさせることができるんです」
「強っ」
「それで、動くのを忘れろって、マルアハの動きを止めたりできます」
「いや強っ」
「あと不死身です」
「ヘエ。不死身ってあれだろ。死なないやつ」
「死なないやつですね」
「ブッ壊れ野郎ばっかじゃねえかっ!さてはヒガンも……」
「わ、私は二人に比べたら全然、その、全然です!」
「ヒガンは、“嫉妬”だっけ?」

 流れで向けられた質問にヒガンはどきりとする。
「とりあえずは、そうですね」
 コーヒーに口をつける。ヒガンの声が少し落ち込んでいることにキルシュは気付く。
「もしかして、自分の欲望が嫌い?」
 目を開く。
「……好きにはなれないです。振り回されてばっかりだから。ああ、でも最近はうまくコントロールできてるんですよ」
「我慢してる?」
 不意に核心を突かれた。
「……」
「それって、苦しいだろ」
 そういって、キルシュはちびちびと紅茶を飲んだ。猫舌のようだ。

「キルシュさんは、“色欲”でしたっけ」
 自分の話は手早く終わらせたかった。
「そうだよ。そういう風に見える?」
「……返答に困ります」
「ちなみに俺はその通り、気持ちいいことが大好きだ」
 さらりと言った。
「その返答も困ります……」
 若々しい姿なれど、彼の言動の節々には「その道」の経験を十分に積んだ、どっしりとした雰囲気が漂っている。
「キルシュさん、何歳なんですか?」
 ヒガンはふとした疑問を呈してみた。
「分かんない。昔の記憶がなくてよ」
 思わぬ答えにヒガンは言葉を返せなかった。
 もしかしたら、踏み込んではいけないことだったかもしれない。自らだって語りたくないことはたくさんあるし、ついさっきそれを無理やり回避したというのに。しかし、ヒガンの心配をよそに平然とキルシュは会話を続ける。
「ちなみに何歳くらいに見える?」
「……1、7歳くらいでしょうか」
「じゃあ、今日は17歳ってことにしよう。ちなみに、昨日は何歳だったと思う?」
「20歳、でしょうか」
「122歳だ。ピチピチのジジイになってやったぜ」

 ヒガンは小さく吹き出した。
「なんですか、それ」
「ついでに1か月くらい前は2歳だった。成長したろ」
「フフ、すごい、急成長ですね」
 ヒガンの緊張が溶けていく。彼は気取っていなければ、近所に住む年下の男の子のような近しさがある。
「正直自分のことはなんも覚えてないけど、全然気にしちゃいないんだ」
「……前向きなんですね」
「ああ。唯一覚えていることがあるから」
 ヒガンはキルシュを見やる。彼の横顔は遠くを眺めている。
「ベネディクティンという名の人だ。記憶が曖昧で、他にはあんまり分からないけど。そいつはどこかに隠れている」
 キルシュは思い浮かべる。頭の中のモヤのかかったイメージをかき集める。ベネディクティンは苛烈な人間だった。ひとつの、ちょっとした発想のために、何もかもを投じることができる人間だった。
「俺は、そいつを探してる」
 彼の表情は変わらない。
「だから、俺はマルアハと戦えない。アイツを見つける前に死んじまうわけにいかねえからな」
 キルシュはぐいと缶を傾けて、残りの紅茶を口へ入れた。
「……そうですよね。みんな、それぞれにやりたいことがあるもの」
「果実押し付けられて、いきなりバケモン倒せなんて言われたって困るよなあ!」
「ふふ、そうですよね」
 ヒガンは笑った。コーヒーで体は程々に暖まっていて、体の力はそこそこに抜けていた。

「ヒガンはさ、なんでマルアハと戦ってんだ?」
「……」
「ああ、言えないならいいんだ」
 なんで。頭の中を探ると、理由は思ったより形を持って転がっている。ヒガンはそれを手にとって言ってもいいものかどうか見つめた。見つめて、夜の魔力と、緩んだ気に背中を押された。
「……私、ナナツミが集まったときの、あの夢が本当なのか確かめるためにハリネズミのマルアハのところへ行ったんです」
「うん」
「そうしたら、ロビンさんとジウさんと会ってそれで、そのまま一緒にいて」
 向かいの道路、所々薄くなっている白線を見る。
「……一緒にいて、楽しかったんです。だから、マルアハを倒してる」
 ぽつりと言った。
「怖くないの?」
「怖いです。でも、ひとりでいるほうが怖いから」
 少しぬるくなっているコーヒーを啜る。こんなこと、他の誰にも言うことはなかった。同じ果実を押しつけられた者同士だったからか、はたまた彼が静かに聞いてくれていたからか、ヒガンには分からなかったが嫌な気持ちではなかった。
「好きなんだな。その二人のこと」
 好き。ヒガンは好きという単語を頭の中で反芻して、二人に重ね合わせた。すると存外違和感はなく、腑に落ちた。好き、自分は二人のことが好きなのだ。
「……はい」

 ヒガンは、いつの間にか飲み切ってしまった缶コーヒーを傍に置いた。
「やっぱり、あんたのことがもっと知りたいな」
「え?」
「あんたの欲望は、人を想う心だ」
「…………違います。そんな、温かいものじゃない。出していいものじゃない」
「今日だけはいいさ。こんな夜にはな」
「……駄目よ」
「認められない?」
 キルシュはセミロングの白髪が覆うヒガンの横顔を見つめている。

「あんたは我慢しすぎているんだ」
 もう一度、ヒガンの白線に踏み込んだ。
「我慢をすることは楽しくないことだ。ありたいようにあれないことは苦しいことだ。水の中の魚が陸に上がれば、死んでしまうだろう」

 きっと、自分の欲望、“嫉妬”と名付けられたものについて話しているのだとヒガンは理解する。
「……私はこれでいいんです。貴方も……貴方もナナツミなら、分かるでしょう?あの、体を突き抜ける欲望が」
「ああ」
「私の欲望は人を傷つける」
「だからこそ。ダムが決壊しないよう、少しだけ放水すればいい」
「そういうことじゃないんです! それに」
「ダムはいつか決壊する」
「させない。させないわ」
「でも、それは苦しいんだろ」
 否定ができない。

「貴方に、私の何がわかるの……?」
「わからない。だから、教えてほしい」
「教えられない。私、もう戻りますね」
 立ち上がり、階段を登ろうとした。
「これは、俺のやりたいことでもあるんだ」
 振り返る。自分を見上げる青い目が、小さな火を灯していた。
 
「扉を開かないと分からない。あいつはそういう存在なんだ」
「ッ!」
 彼は、ベネディクティンという人をを探している。その人はどこかに隠れている。そして、彼のアビリティのスペルはーー
 本能的に刃を伸ばした。彼を突き飛ばして距離を取らないといけない。

「ヒガンの中には、一体何がいる?」
 キルシュは、握手するように伸ばされた刃へ手を差し出した。掌に赤い一文字が現れる。そのまま白い手が刃を握った。

 唇が動く。
「“暴け”」
 
 白髪がぞわりと赤く染まる。そして、がくんと、首を垂れた。

「あんたはベネディクティンか?」

 静寂、後に鮮血が舞った。

     ◇
 
 蛇がいる。刃をくねらす蛇がいる。道路の白線が裂かれている。階段の下で白いシャツに赤い染みが広がっていた。蛇はホテルをぼんやりと見つめた。酩酊した足取りで一歩、二歩と入り口へ行き、ドアを開けた。ぽっかりと浮かんだ月の下、欲望のままに蠢く蛇がいた。