第20話「見上げた水面」

うねる水の中を流されている。
浮上を試みようとするものの、すぐさま底へ押し戻される。苦しい。息ができない。痛覚を忘却したとてこればかりは身に堪える。ジウは己の身から温度が消えていくのを感じていた。
こういったことが前にもあった気がする。だから川は苦手だった。
思い出したら己の全てが崩れる気がした。それこそ、氾濫した川に侵食される泥造りの家のように。
吐いた大きな泡がジウの視界を阻害する。水流に踊る瓦礫と泥が身を削ぐ。
ぼやけていく頭の中に、あの土煉瓦の屋内が泡のように浮かんだ。
両横に並ぶ複数の椅子たち。その先に据えられた玉座。そこに座る干からびた死体が口を開いた。
『判決を言い渡す。被告者——を死刑に処す。——した——その——、——のだ』
泡泡が画面を切り替える。
夜、石畳の街中。雨が降っている。
街灯の下に、黒髪の男がいた。
顔を伏せたまま、両手をジウの肩に乗せた。白く骨張った手が震えている。
「君にこの役を背負わせるのは、本当に嫌だった。でも、君にしかできないことなんだよ。すまない、すまない。私を……恨んでくれていいんだよ」
震え声なれど、雨音を貫く声で彼は言った。
黒髪の男はひどく苦しそうだ。肩に置かれた手を外してしまえばそのまま倒れてしまうだろう。「大丈夫だ。任せてくれ」己はそう言ったのだろうか? 違う。確か。
「ーーーー、“見”えているんだろ。俺は、君を裏切るよ」
そして意識は沈んだ。
◇
ウシはゆっくりと空へ浮上していた。
ごぽごぽと、水を吹き出す。みるみるうちに六本の滝が復活した。街を満たす水が再びさざめいている。地盤が緩まりビルが倒れて、沈んでいく。
スクール、スーパーマーケット、人々の営みの場は息を止めた。生活の死体が混ざって、ウシの湖は濁っていく。きっとその死体にジウは埋もれている。遠く流され、戦線に復帰できるはずはない。
見上げれば、マルアハの巨体が太陽を隠した。街に大きな影を落としている。
第19地区庁舎はその身の3分の1を水に浸していた。いつこの足場が崩壊するかも分からない。
地上20階屋上で、ロビンはウシを睨んでいた。
脳裏で己の手札を広げる。
あの高度に手は届くか? また建物をぶん投げて、それに飛び乗れば? いや、やつはもう大分高いところにいる。もう少し高度を落とさなければ。ああ、それに己は不死身でない! 風圧に体が耐えうるか——
ジウの戦線離脱が痛手だ。ハリネズミのマルアハ、婦人のマルアハ共に彼のサポートなくては倒すことはできなかった。
「……“掴め”」
考えながらに黄金の手を展開する。
「ヒガン、刃はどこにある?」
「……彼の中と、マルアハの体に」
背後の声が答えた。まだ切り札はある。
「よし、じゃあマルアハん中で暴れてくれ。それで高度を落とす。今度はおれが乗り込んでやるさ」
「はい」
大どろぼうの背後で蛇がその身をくねらせている。
ヒガンの顔を覆う両手の隙間から、赤い瞳が覗いた。
「“見て”」
ゾッとしてロビンは振り返った。
ロビンの体を避け、奇妙な魔力が走っていく。それは遥か空の上のマルアハへ牙を向いた。食らいつき、その毒を注入する。
陽光が、きらりと光った。一瞬光った。滝が揺らぐ。
あの巨大戦艦の甲板に、ヒガンの刃が突き刺さっている。
「はい、私が、あれをメチャクチャにします。だから」
ヒガンは震える両手を外す。
細い瞳孔の目が大どろぼうを捉えた。
「ほしいものがあるんです。盗ってきてくれませんか?」
物怖じせずに彼女は言った。
これは挑発だ、ロビンへの発破だ。ロビンは目を丸くした。
「策があるのか」
「はい。私が落とすより、もっと確実に沈められる方法が」
どこからか愉快な気持ちがロビンの中で湧き上がってくる。彼女の珍しい我儘だ。よりにもよって、こんな修羅場で!
「聞かせてくれよ」
ヒガンは浮いた2本の刃のうちの1本を掴み、握った。
「ジウがまだ生きてる。勝算になってもらいます」
ヒガンは汗が伝う顔で笑った。やっぱり恐ろしいやつだと、ロビンは思った。
◇
ヒガンが暴走したあの夜。それから数日後、キルシュのいる病院へ行く前日。
夜、ホテルの廊下。
ジウは相変わらずタバコを咥えている。ジャケットは部屋に置いてきたようだ。灰色の半袖から伸びた腕があの夜を呼び起こす。
「あのときは、ごめんなさい」
「気にしないよ」
ジウはあっさりとそう言った。ヒガンは口を閉じざるを得なかった。
「ロビンにもそう言われたろう」
「はい。気にしないから、これからも暴れてくれよって……」
「俺もそういったところだ。我慢し過ぎないで、うまく発散していけばいい」
謝罪をするところが、逆に慰められてしまった気がする。
「……ジウさんも、何かを我慢しているのですか」
「我慢?」
「私とか、ロビンとか、あと色欲の、キルシュさんも……欲張りですよね。でも、ジウさんはそう思えなくて」
「そうかい」
外は雨が降っていて、窓に雨粒がついていた。ジウは煙を吸う。その手で口元が見えない。
「私も、ジウさんのために何かをしたいです」
ヒガンは言った。
紫煙の向こうで、ジウは目を見開く。
「そりゃあ……」
「何か、してほしいことはないですか。今、教えてください。今」
「ううむ」
ジウは珍しく困った様子だった。
「あ、じゃあ。ヒガンサン」
「は!な、なんでしょう」
「呼び名を変えてくれ。ジウでいい。いつも言いにくいだろ」
ヒガンは拍子抜けした。
「…………ジウ」
「うん、ありがとう」
彼女は耳が熱いのを感じている。
「いや、ほ、他にはないんですか? 他には!」
「ううむ……」
ヒガンはジウを見上げて視線を離さない。
なんとか、在庫のない倉庫から物品を探ろうとしている。そんな時間が流れた。
「……じゃあ、仕事をくれ。なんでもいい」
どこか面映い様子でジウは言った。
ヒガンは覚悟を決めた。
「仕事、仕事ですね。整備工としてのスキルが役立つお仕事……よし……」
「違う、そうじゃない。あー、なんでもいいんだ。やることがあったら、俺に押し付けてくれ」
やること、ヒガンの記憶で結びつく言葉があった。
「……役目、ですか?」
「何かやってりゃ、長い人生も気が紛れる」
「……」
彼の表情から読み取れるものは少ない。
「ジウは……絶対に怠惰な人じゃないです」
「どうだかね……」
ジウは窓の外の夜の街を眺めていた。
彼の周りだけ、時間が緩やかに流れている気がした。正規の時間から取り残されて、彼は一人でいる。
ヒガンはそれが嫌だった。寂しいと思った。彼の手を掴んで、引き摺り出したいと思った。こんなの勝手な、勝手な欲望だ。
◇
ヒガンは目をつむった。
彼女のアビリティには触覚じみたものがある。
——血管を流れる血潮が刃を叩いている。筋肉が蠢いている。
まだ温かかった。それは彼の中にいた。ジウを貫いていた。
ヒガンの刃は計4本。
そのうち2本を手元に、2本をジウに託した。託した2本はひとまとめにして、彼を船上に固定した。
しかし、彼は吹き飛ばされた。船上に刃を残して。
彼が弾き飛ばされたとき、ヒガンは2本の刃のうち1本を彼の体に忍び込ませた。
刃の4分の1は牛の体に。4分の2はヒガンの手元に。そして、4分の1はジウの中にある。
ヒガンの行う仕事は二つ。
一つ、ウシのマルアハの気を引くこと。
「“見て”」
ヒガンの赤い目が開かれる。再び、あの蛇の魔力が蠢き毒牙を剥いた。じわじわと、じわじわと。
甲板に刺さったその刃が、ゆっくりと、枝のように二股に分かれる。そして枝がまた分かれ、体内へ潜っていく。
あの夜、ロビンの黄金の手へ行った攻撃だ。肉体を刃が這うのは痛かろう、ロビンはマルアハを見上げて眉を顰めほくそ笑んだ。その痛みは身をもって知っている。
ウシのマルアハは叫んだ。ぐらりぐらりと体制を崩す。
「いいぞ!」
そしてロビンはマルアハへ大きく展開した片手を構える。来るべき時を指の隙間から伺った。
びきり、と刃が硬質な体を潜っていく。
マルアハは、天に登ろうとしては、叶わず高度を落とす。
「“見て”……ッ!」
睨みあげる。なんとあれの体が硬いこと。ヒガンはアビリティをさらに回す。
ひとつき、ひとつきが重い。歯を食いしばる。さあ、厄介だろう。自分たちは、排除しなければならない脅威だろう?
では、光輪の光線を撃つか? 痛みで満たされた頭で、高度な攻撃が行えるはずがない。よくて、じたばたと尻尾を振るのみだ。
黄金の手の隙間から、ロビンはそれを見た。
「乗った!」
空気を裂く音と共に高速。回転飛行する白の尾。
あの白い三日月がこちらに放たれた。殺意が円を描いて飛来する。
「“掴め”っ!!」
ロビンは黄金の手でブーメランを受け止めた。衝撃に体が吹き飛びかける。
「(これぶっ飛ばしたやつマジでバカだろッ!)」
尾が手中で暴れ回る。ロビンはそれを力いっぱいに握りしめ、宙に掲げた。
「ヒガンッ!!持ってけっ!!」
ヒガンは右上から左下へ片手を振る。
その指示通りに、宙に浮いたもう一本の刃が、尾を握る黄金の手ごと貫いた。風を切る高音。
勢いのまま刃と尾は屋上から急拵えの湖の中へ墜落する。
そして、ヒガンは片手に残した最後の刃を強く握った。
己の手を裂いて、血が流れる。そんな痛みは感覚の彼方だ。
ヒガンの目が血を吹いた。
「“見て”、ジウ!私を、早く気づいて、私を“見て”!」
仕事は終わっていない。
◇
胸が痛い。痛い。物理的に痛い。
息のできぬ苦しみを、はるかに超えて痛かった。
ジウは目を開ける。
あぶくの夢は弾けて消えた。視線を下げれば、己の胸に赤い刃が突き刺さっている。針金でできた樹が、己から生えているようだった。
「(ヒガンだ)」
これはどういうことだ? なにかメッセージがあるのか、それとも衝動的なものなのか。それにしても痛い。地獄だ。息のできない苦しみをも超えてくる。
己から生えた刃がぐぐ、ぐぐと身をもたげ、上方を向いた。指をさしているようでもある。ジウは水面を見上げた。
瓦礫を押し分け、光がさす。
何かが、隕石じみて落ちてくる。
ジウは目を懸命に凝らす。
ロビンの黄金の手、それを突き刺すヒガンの刃。そして、手中に白い物体。
ウシの尾だ。
「ッ!?」
ヒガンの刃を推力として、それはジウの体の上に墜落する。体を押しつぶされて血を吐いた。
尾がもがいている。それを黄金の手が押さえている。串のように刺さった刃はゴソゴソと、体内に入り込んできた。そして、ジウから伸びていた刃がそれと混ざり合う。
一本の刃と化して、それは真っ直ぐとジウとマルアハの尾を繋ぎ止めた。
脳を掻き乱す痛みの隙間でジウは思考を絞り出す。むちゃくちゃだ。だが確かに目が覚めた。痛みと役目が彼を今に引き戻す。
ジウはその白い尾に触れた。
「“忘れろ”」