第21話「日に手を伸ばせ」



 水底の返答をロビンは見ていた。

 青天、白の大船が堕ちていく。首を上げウシが鳴いた。
 宙をもがきながら沈んでいく。遠い太陽へ叫びは届いたのだろうか。

「ありがとう、ジウ。ごめんなさい」
 疲労で重いまぶたのまま、ヒガンは刃に頬を寄せた。彼の血潮が聞こえる気がする。

 ロビンは身を乗り出し、危うく柵から落ちかける。
「やりやがったな!」
 戯れに悪態をつく。何が“怠惰”だ! 素晴らしいしぶとさじゃないか。

 六本の滝は細まっていた。あの大音量の水音も小さくなっている。ウシの吐き出す水量が減っている。
 恐ろしいほどに強力なアビリティだ。間違っても向けられたくはない。
 そんなことを考えながら、ロビンは体勢を立て直し来るべき時を待った。

「————!!」

 溺れる、という感覚をウシのマルアハは初めて理解した。
 船底から生えた一列の粗末な足が宙を掻く。しかし、それでも浮上はできない。
 自らのデータベースから浮上の方法が、浮上しなければならない理由が消えていく。この気味の悪い魔力はどこから流れている?
 ——水底に沈み、戻ってこない己の尾。
 そこから気味の悪い魔力が注がれている。

 ならばと、尾を引き上げようとするも不可能だ。
 “手”のようなものが尾を覆い押さえ込んでいる。それだけじゃない、何か“杭”が刺さって抜けない。
 暗礁に乗り上げている。解法を鈍化していく頭で模索した。
 そして錯乱のうちに、ウシのマルアハは何かの音声を感知した。

「よう、空はもう飽きただろ」

 それは小さな大どろぼうの声だ。
 この子どもの声を感知できるほどにマルアハは地に近づいていた。

「“掴め”!」
 ロビンは両手を広げ、狙いをウシのマルアハに定めた。その大きな手を放出しようとしたそのときだった。
 マルアハは首を上げ太陽を望む。

 その面がグルンとこちらを向いた。貌のない面。感情の見えないまっ平。
 ウシの頭上にはあの、青の光輪が据えてある。
 周囲の魔力を絶望的に吸い込んで、その光輪が光を放った。

 これにはいつだって鳥肌が立つ。悪寒か興奮かも分からないままにロビンはぐいと口角を上げた。
「そりゃそうだ!」
 標準を下げ両の手をウシへ向けた。
 足を踏ん張る。あと、十数秒後にあの怒涛の魔力が吐き出されるだろう。
 再びあの高密度の魔力を吸収するのは気が重い。やれるか? やれるに決まっている。己は大どろぼうだ、盗めぬものなどこの世にない! ロビンは魂を燃え上がらせた。
 しかし、それは徒労に終わった。

「——!」

 ロビンの予想は外れた。

 ウシの面がガクンと下を向く。
 思ってもいない挙動、狙いがロビンから逸れた。
 きっと意図的なものではない。体の力が失われて行ったことによる偶然の事故。そしてその偶然は、幸運ではなく不運の類である。
 光輪はロビンではなく、ロビンたちの足場である庁舎へ向いていた。
「おっと、マジか」

 光線は庁舎を貫いた。爆音にロビンは耳を塞いだ。ヒガンは目を見開いた。
 通常時より細まった光線。なれどビルは真っ二つ。ぐらりとロビン達の足場は空に投げ出される。支えをなくして、体と内臓もふわりと浮いた感じがした。

 瞬時にロビンは頭に周辺地図を広げた。この辺りのビルのほとんどは水に沈もうとしている。手が届くような高台はない。
 あの船以外には。

「ヒガン!“掴め”ッ!!」
 ロビンは振り向き叫んだ。
 掴め?何を?手を掴めということか?混乱した思考を追い越して、先に回答がヒガンの視界に飛び込んでくる。

 黄金の左手がヒガンを掴んだ。
「えっ」

「もういっちょ“掴め”っ!!」
 獣の目が狙った先へ右手を伸ばす。展開した黄金の手を飛ばした。
 黄金の手はウシのマルアハ、その体、船じみた縁を掴み握った。

 掴んだことを確認しロビンは振り返る。
「行くぞ」
 覚悟しろと言わんばかりにヒガンの目を見据えた。
 ヒガンは理解した。覚悟はまだできていなかった。

 黄金の手の軌道をなぞり、二人は宙へ投げ飛ばされた。凄まじい向かい風!
 黄金の手をフックにしてバネのように跳んだのだ。婦人のマルアハ戦で見出したアビリティの新たな活用法である。
 命綱は目に見えない。そもそもそんなものあるのだろうか?
(誰か助けて!)
 ヒガンはそう叫ぶこともできなかった、叩きつけられる風で口を開けることができなかったのだ。

 瞬く間に二人は船の縁も追い越し、空中、船の上まで飛び上がった。さながら撃ち放たれたパチンコ弾だ。
 船の上からおよそ10m。ロビンはその場で、さらにヒガンを上空へ放り投げた。
(嘘っ!?)
 黄金の左手が消える。

「ロビンーーーッッ!!」
 ヒガンは上空を落下していた。視界に広がる空が皮肉じみて青々ときれいだ。

 その間にもロビンは体を捻り着地の体勢へ。
 迫り来る白い甲板に両足で着地する。体をひねり横に倒れ、衝撃を各部位に分散させた。

 ロビンは転がる勢いのままバネのように体を起こす。
 すぐさま「“掴め”!」黄金の手を展開した。

 ヒガンは自分が加速し落ちるのを感じていた。地面を見ることもできない。風を切る音。落ちる、地面に叩きつけられる——
「っ!」
 そして、ヒガンの背面をボスンとクッションじみたものが包んだ。
 衝撃でトランポリンのように一度跳ねて、もう一度。クッションに身を落とす。
 傍を見る。黄金の手だ。

「ろ、ロビン……っ!」

 黄金の手がゆっくりとヒガンを下ろす。ソファにその身を預けたような姿勢のまま、ヒガンは固まっていた。言いたいことは数あれど言葉がうまく出てこない。

「無事か?」
「し、死ぬかと」
「オーライオーライ、生きてらあ」
 ロビンはヒガンの手を取り、引き上げる。クッションの手を魔力に還した。

 がくん、と船が揺れた。
 ロビンは両足で踏ん張る。ヒガンは危うくバランスを崩しそうになった。
 船は浮上を始める。ゆっくりと、確かに。そして、水面を叩く滝の音が徐々に蘇る。

 すぐさま二人は水底の分身に意識を澄ませる。
 ウシの尾がない。
 黄金の手で包んでいた、紫の刃で突き刺していた尾の感触がない。

「ロビン!」
 早々にケリをつけなければならない。詳細を述べる前にアイコンタクトで意図は通じた。
「ああ、盗ってきてやるっ!」
 ロビンは両手を空に向けた。正確には太陽の照る、ウシのマルアハの頭、そこに掲げられた光輪に。
「そっち任せたぞ」
 振り返らないで言い残した。

「“掴め”っ!」
 黄金の手が展開する。日を受け黄色に煌めいた。飛び出したその手が彼方の光輪を掴む。
 そして、引っ張られるようにロビンは飛んでいった。

 ヒガンは深く息を吸って、吐いた。体の動揺を忘れようとする。
 立ち上がる。ウシの体に突きつけていた刃を引き抜いた。手元の一本と合わせ2本の刃の感覚を確かめる。
 思わぬ空の旅の衝撃がまだ体に残っている。
 無茶なことを言わないでほしい! 文句を言いたい気持ちと裏腹に、ヒガンは鼓動を感じていた。スリル?それと歓喜だ。託されてしまった、それはずるい。
 体が熱い。心で炎が燃えている。
 ジウは仕事をやり遂げた。今度は自分の番だ。大どろぼうの仲間として、仕事を果たさなければならない。

 風切り音。
 海から遥々上空を目指した尾を、ヒガンはしなる刃で叩き切った。
「無視しないでくださいよ」
 尾は勢いを失い一度墜落する。そして今度はヒガンに狙いを定めた。襲い来る尾に、再び刃を向けた。

「“見て”」

     ◇

 ウシのマルアハが再び空へ逃れようとしたそのときだった。
「————!!!」
 己の中枢機能である光輪を何かが掴んだ。
 ウシのマルアハは叫び、体を揺らす。

 ありったけの魔力を集わせ、水を吐き出す。己の背を這いずり回る蚤が煩わしい。己の尾で、この頭上の虫を払わなければならない。
 しかし叶わない。あのしなる刃は尾を離さない。幾重に渡る斬撃で操作もおぼつかない。
 
 そして、マルアハの眼前にそれが飛び出してきた。

 羽も持たぬ、小さな小さな人間の子ども。
 アビリティが解除されている。今しかない。力なき蚤などつぶせば終わりだ。

 否、マルアハの感覚機能は警鐘を鳴らした。
「…………!」
 大どろぼうは両手をマルアハに向けた。

 魔力が蚤に集っていく。
 強引に、欲する膨大な量の魔力が集い、黄金色のそれに形を変えていく。
 編み上げられたそれは人間の手の形をしていた。欲する全てを強奪する、大悪党のゴールデンハンド。
 獣の目が強欲の切先を向けた。

 腕を引き、思いっきり両手を突き出す。
「“掴ん”でこいっ!」

 黄金の手が放たれる。ウシのマルアハは再び光輪に魔力を集わせる。すでに遅い。
 大どろぼうの手が、ぎゅうと天の輪を掴んだ。

「————ッ!!!」

 肉体を持つ生物ならば脳みそを掴まれているようなものだ。この世のものと思えぬ不快感、痛みにマルアハは声を上げた。
 この虫を払わなければ。尾を————

「“見て”」

 紫の斬撃。白の三日月は二つに果て、湖へ落ちていった。

 つまり、マルアハは体を揺らすことしかできなかった。睨みつける目があったならば、心底の嫌悪をこの大どろぼうへ向けていただろう。

「水に帰れよ、船野郎ア!」

 大どろぼうは叫んだ。黄金の手がリングを握りしめる。

 マルアハは見上げた。大どろぼうの向こう側で、空が青く広がっていた。
 記憶をたぐり寄せた。忘れようとも忘れられない。
 あれは、“カミサマ”と同じ青色だった。

「あんたのことを教えろよ」

 光輪が形を崩した。

 そして、ウシのマルアハは着水した。水が王冠の形に跳ね上がり、大きな水飛沫を上げていた。
 その光景を、憤怒の革命家と緑眼大佐らは目を開き望む。
 大どろぼうは世界を切り拓いていく。あれを希望と呼ぶのかもしれない。

     ◇

 ……青い光輪は、身体から剥奪されていく思考の中で考えていた。

『あんたのことを教えろよ』

  ならば、ならば、ならば、ならば。
 ああ、教えてやろう。あれに全てを教えてやろう。
 いい餌になる。教えたところで意味はない。きっと、死神が全ての記録を消していくのだから。

 あとは暗闇に落ちていく己であれど、己である限り終わっていない。まだ、まだ、できることがあるだろう。