第23話「物語の主」




 ビンガムは窓の外を眺めていた。
 
「空のマルアハは沈み、失せました」
 会話用のヘッドセットから男の声が聞こえる。
 ビンガムは弱視ゆえに、こうして世界を見ることもある。

「透明な色の海は消えましたが、街は瓦礫と化しています」
 それは、ビンガムの隣に座っている青年の声だった。低音で落ち着いた声。
 スーツ姿のビンガムに対し、彼の身なりは黒のTシャツ、トラウザーパンツにタクティカルブーツと、軍人じみている。所属を表すエンブレムはない。
 腰の四角い皮の鞘には、肉包丁のような刃物が収まっていた。

「乾いているかな」
「はい」
「魔術は全て解かれたか。全く、とんでもない生き物だ……」

 戯れにサングラスを外して、瞼を開き、窓の外を見た。
 眩しい。陽光は目を刺し不快で、ぼやけた視界では空の下の様子は分からなかった。
 改めてサングラスを掛け、目を閉じた。

 軍用ヘリコプターの簡素な座席は老体には響くが、目的地まではあっという間に着くだろう。痛む腰へもう少しの辛抱だと言い聞かせ、座り直した。
 青年は専ら寡黙な性質で、要件が済めば黙ってしまう。
 彼とは久方ぶりの再会で、今が滅多にない会話の機会だった。ビンガムは口を開く。

「“本部”情報局勤めが、こんな怪しい船に乗ってくれるなんてね」
 黒のキャップが青年の目元に影を落としている。つばの右端からは白い角が伸びていた。
 元々、二本生えていたものだ。うち一本は、中央——グランダリア中央軍に入る際に切り落として見せた。
 自らのアイデンティティを捨ててでも、中央に与すると表明するために。
「ガオエンの民は主を裏切らないのだろう?」

 青年は伏せていた顔を起こす。
「中央は私の主ではない。お分かりでしょう」
「フフ、ならば裏切りではないと」
「そう解釈します」

「君が来てくれて嬉しいよ、リー・ジー」
 青年——リー・ジーはわずかに口角を上げた。
 ビンガムとは親子二世代に渡る付き合いで、彼の頼みは断れない。エンド・グラウンドでの生活の援助など、数々の恩義があった。

「会談は穏やかなものになると信じているが、彼らは私が普段相手にしているようなお偉い方ではないからね」
 ビンガムの集めた情報では、彼らは盗人、殺人鬼、正体不明だ。
 そして、新たな問題が発生している。
「あの三人だけなら、まだ良いが」

 ウシの尾を殴り飛ばす、常人離れした怪力。
 粉塵の中の赤肌と、風に靡くドレッドヘアーをビンガムは見た。
 あれはアトラス——中央が危険組織と認定した“アトラス革命軍”、そのリーダーに違いない。

 アトラス革命軍は、エンド・グラウンドに住まう、多種多様な民族が集まった組織で、中央政府の打破を掲げている。

 マルアハの襲来により住む土地を追われた人々は、より安全なグランダリア大陸の中央部ではなく、その周縁にのみ居住を許される。マルアハのすぐそばに位置する危険なエリア、エンド・グラウンドから出ることは許されなかった。
 なぜ、中央人のみが安全な場所で守られているのか?自分達は中央から、あの怪物へ贄として捧げられている。そんなのはごめんだと、それが彼ら一派の主張であった。

 アトラスはそのリーダーとしてエンド・グラウンドとシティ・メトリオとの境で、幾度となく暴動を起こしていた。壁に穴を開け進軍し、セント・グランドまで辿り着いたこともある。
 中央に楯突く危険組織でも随一の脅威と評されていた。

「あの暴れん坊が話を聞くとは思えない」
 リー・ジーは沈黙にて肯定した。

 ビンガムは緑色の眼を持っている。
 それはエデナ民族という、エンド・グラウンドに居住を指定された民族の特徴だった。リー・ジーたちガオエンの民、カイィ族と同じ立ち位置にいる。
 彼らが絶望の最前線、エンド・グラウンドを離れるには、中央政府に自らの力を示す必要がある。有用な人材であれば、例外的に中央での生活を許されていた。

 そうして、ビンガムは中央議会に属する議員となり、終末の地を離れた。
(あの男からすれば、私は裏切り者だ)
 三人との交渉の最中、あの男に出てこられたらひとたまりもない。あれは物事をぶち壊しにする才能に長けている。三人のため用意した会談の場に、ずかずかと現れ席につく可能性は大いにある。
 そうすれば一体、どこまで話が進められるだろう。少しでも情報を引き出す必要がある。
 ナダイは『あれらを引き入れろ』と命じた。彼らを我が陣営のものとすべしと。

 しばらく沈黙が続く。ヘッドセットで拵えた静寂はどこかこそばゆい。

「一体……彼らは何者なんだろう」
 ビンガムは呟いた。
 リー・ジーは漸く口を開く。
「よく目を凝らしても、英雄には見えませんな」
 ビンガムは口角の片方を上げた。

「我々は知らないことが多い。あの四人は一体何を、どこまで知っているのだろう」
 不可解なことはいくらでもある。

 一つ、マルアハに魔術が通じる。
 今まで、どんなに強力な兵器だろうと、魔術だろうとマルアハは傷ひとつついたことがなかった。
『我々は、魔力を魔術に変換する。己の魂というものによって』
『しかし、あれらの出力は我々のものと異なる。研究者共がいうには、何か“フィルター”がかかっているらしい』
 その"フィルター"はどこで手にいれた?

 二つ、繋がりが分からない。
 彼らの経歴を探ったが、交差する点は一つもない。何かひとつ共通点があるとすれば、「ならず者」であるというだけ。

 事態は急速に動いている。
 彼らがもしも、もしも全てのマルアハを倒してしまったら、中央だって、もちろんビンガム達にも出る幕はない。役立たずの烙印を押され、まさに革命軍のような郎党に権力の座から引き摺り下ろされる。
(たまらないな……)

 ぽっと出のならず者が栄冠を盗むか。
 終末を回避しようと足掻いた、百数年の先人たちは踏み躙られて?
 違う、悪党に冠は似合わない。

 青い炎を思い出す。鮮烈な炎。己も他も燃やす炎。英雄であるならば彼だった。
(私が、お前の物語にしてみせよう。ナダイ)

 ビンガムは首から下げたエデナ十字を手に取り、額につけた。
 そして呟いた。
「……我らが、大神樹ノアよ」
 目的地が近づいている。
 洪水で崩壊した街の中に、きっと三人の英雄がいるはずだ。

「らくえんにて、我らを守りたまえ」

     ◇

 吹雪が止んだ。

 アトラス革命軍斥候、シトロ・ヴェルフは、空の色が灰色ではなく、彩度の低い青緑であることをこのとき知った。
 大地は雪に覆われ白い。
 ここ、エンド・グラウンド第15地区は長い間、吹雪に閉ざされた土地だった。

 視界を妨げる吹雪が消え、その巨躯がよく見えた。
(一体何が起きたんだ)
 伏せて身を隠すことも忘れ、硬直した身でそれを俯瞰した。

 これは、妃のマルアハと呼ばれている。
 その姿形は、首元にファーを巻き、足下の隠れるドレスを着た貴婦人のようであった。
 鳥を象った面。細長い、鉤爪のような腕。後頭部から垂れている、孔雀の羽じみた飾り。

 その全てが凍りついている。

 シトロ・ヴェルフは握りしめていた計測器を見た。壊れている。今さっき、測りきれないほどの莫大な魔力が動いたのだ。
(当たりだ)
 妃の足元に黒い影が広がっている。

 手袋越しの人差し指でゴーグルの縁に触れ、魔術を起動する。視界の倍率が上がる。ピントを合わせる。

 人々の秩序だった列。
 羽根飾りのついたヘルメット。型式ばった軍服。肩に下げた小銃。一昔前の軍隊のように見える。
 顔の印象が頭に入ってこない。掠れてよく見えない写真のようだった。
 体の輪郭がぼやけている。

 彼らは影の身を揺らし、前方を見据えている。

 ——噂があった。第15地区には亡霊がいる。
 旧時代的な兵士の亡霊。
 そして、それを率いる「亡霊王」
 吹雪の中で氷を操る。グランダリア中央軍をも追い返す程に、強大な力を持つ。
 それがいた。

 「王」は人差し指を、妃の面に向けていた。
 雪に溶け込む白髪、それを覆う灰色のヴェール。
 喪に服したような黒のドレス、銀のコインで装飾された毛皮の帽子。
 その身は宙に浮いており、灰色の影が雪原に落ちている。
 少女の姿形をしていた。
 
(あの子が、マルアハを凍らせた)
 現実的でないことが目の前で起きている。

 ただでさえ、あの量の使い魔を構成、維持することは人には不可能だ。兵隊たちが真の亡霊であるか真偽は問わずとも。
 並の魔術師が持つキャパシティを優に超えている。

 そして、なぜ吹雪が止んだのか?そもそも、あの吹雪は自然現象だったのか。
(違う、あれは彼女が生成していたものだ。その分の魔力をマルアハの凍結に回したから吹雪が止んだ)
 規格外の化け物。幸い己に気づいたそぶりはない。下手に動けない。心臓を握られている気がする。

(呑まれるな、目の前のこと全てを持ち帰れ)
 目を強く開く。
 彼は自分がここにいる意味、役目を思い出す。リーダーが皆に共有したこと。
(ナナツミ、ゲンザイ、イノセンスという少女、マルアハに対抗する力……。信じられないよな)
 だが、シトロ・ヴェルフが怪獣を目にするのは二度目だった。

 雄叫びを上げる炎。
 “憤怒”を顕す灼熱、全てを燃やし破壊する、赤い炎。

(リーダーと同類というなら頷ける)

 彼女も、星の滅びに抗う者だろうか。共に戦う同志たりうるか。
 継続し、情報を集めなければ判断がつかない。

 己の呼吸音のみが耳に響く。
 外気に触れている肌の痛みは集中の外にあった。これからどう動く?
 なぜ吹雪でこの地域を閉ざしているのか。他に仲間はいるのか。行動の目的。
 彼女は人間なのか?
 ゴーグルの向こうで、白髪とヴェールが風に靡いている。帽子の銀飾りが光を反射し色を変える。髪束の隙間から小さな耳が見える。 

 ぐるんと、こちらを向いた。
「っ!」
 氷の色をした青い目。
 臓腑が凍りつくように感じた。そして、それは実際に起こりうる。

 ゴーグルの拡大した視界で、動いた口を読んだ。

「頭が高い」

 彼女は人差し指と中指をくいと上げた。
 シトロ・ヴェルフは本能的に飛び退く。眼前に現れたのは氷の杭だった。
「——ッ!」
 すぐさま背を向け走り出した。
 背後で氷の杭が芽吹く音がする。冷気と音が追いかけてくる。

 亡霊王は逃げる背を見て言った。彼が聞く術はない。
「“眠れ”」 

 そして、シトロ・ヴェルフの目の前に氷の樹が立った。
 それは巨大な槍のようだった。高台を形成する大地を抉り取る。彼は切り出された地盤もろとも宙に投げ出された。

(ふざけろっ)
 体を捻り体勢を立て直す。靴底で魔力を放出して跳ね、なんとか落下のスピードをコントロールする。落ちるしかない。崖に捕まり登って逃げるエネルギーはない。
 まともな高さで、地面に落ちた。雪がクッションになり助かった。それでも衝撃ですぐに動き出せない。
 痛む体でひれ伏し、頭を上げた。

 亡霊王がそこにいた。
 絶対零度の氷の目がシトロ・ヴェルフを見下ろしている。

 彼は確信した。
(これは魔王だ。世界を救う顔じゃない)

 第15地区。
 ここに、かつてロマーシカという帝国があった。
 その最後の皇帝をエリザヴェータ・ヴィトシュラ・ロワロマという。