第5話「脈動の夜」

 目を開ける。
 ここは。見渡す。エンドグラウンドの中央広場だ。人は見当たらない。どこか違和感のある空間に、ロビンはここが夢の中であることに気づく。
 やるべき事も思い出す。ふわふわとした思考はすっかり地に着いた。
「おい、イノセンス!」
 どこにともなく名を呼んだ。声は浴室の中のように反響する。
 広場の中央、小さな青の光。それは少しずつ増えて、一人の少女の輪郭を象っていく。そして、ふわりとイノセンスは現れた。
「いかがなされましたか」

 毎度不思議なものだとロビンは思う。
「質問だ。マルアハの心臓がさぁ、おれのなかに入っちまったんだがよ」
「ええ。そのように作りましたから」
 小さな鈴のような声が答えた。

「そりゃ、どういうことだ?」
「貴方たちのナナツミは、大きな魔力の貯蔵が可能になっています」
 イノセンスはくるりとロビンの視線から背を向け、歩き出す。ロビンはそれを追いかける。

「ゲンザイとナナツミの違いは覚えていますか」
「うん。ゲンザイはみんなに配られた種。ナナツミはゲンザイが成長したやつで、アビリティを使える……だったよな」
「その通りです。大きな欲望によって、ゲンザイはナナツミに進化する」
「それは分かってるよ」
 ロビンの反応を受け取りもせず、イノセンスは話を続ける。

「ナナツミは底なしの欲望を満たすために、より多くの魔力を使用できるよう宿主のキャパシティを広げます。これにより、膨大なエネルギーを必要とするアビリティを行使可能とします」
「ビニール袋をグイグイって広げた感じ?」
「はい」
 話の傍、ロビンは道の小石を蹴り遊ぶ。だが、小石のように見えたそれは赤い宝石だ。

「いや、ナナツミがでっけー魔力を貯められるっていうのは分かったけどさ。なんで、青い心臓がスルスル入ってきたんだ?」
 ロビンの意思の外で、青い心臓は溶けるように自らの内へ入ってきた。
「ナナツミは、魔力を吸収しやすい特性を持っているのです」

「ああ……だから、魔力でできた心臓が吸収された」
「周辺の魔力が枯渇していても、貴方たちはアビリティを使えます」
 現代、魔力の減少は社会問題の一つとなっている。魔力量を測定する技術が確立されてから、世界の魔力量が増加したことはない。
 だが、少なくともロビンは黄金の手を出すのに苦労したことはなかった。
「じゃ、今おれは魔力でタプタプって感じか」
「はい。アビリティの使い勝手も変わるでしょう」

 細い路地に赤色の出店が所狭しと並んでいる。大きなカゴの中には、オレンジが山のように積み重なっている。ロビンがオレンジを手に取り口にするとピザの味がした。一口目はびっくりしたが、二口目からはピザの旨みを受け入れられた。
「しかし、一点踏まえておいてほしいことがあります」
「それは?」
 大きな一口に果汁が飛ぶ。

「一度に膨大な魔力を吸収したナナツミは、暴走してしまう危険があります」
「ッふぉうほう!!」
 大きな頬袋のまま声を出す。
「ナナツミは、我欲を満たすため実るもの。我欲を満たすためのエネルギーが十分にあったのなら、平時よりも堪えが効かない」
 ピザ味を咀嚼し飲み込み、口の中を空にする。「つまり、どうなるんだ?」

「きっかけ一つで、アビリティをコントロールできなくなる危険性があるのです」
「力に引きずられちゃうのか」
「はい。膨大な魔力を有した貴方は今、したいことを全て叶えられる力を手にしたのですから。そのような大きな力を、小さな貴方がコントロールしきれるか」

 ロビンには愚問だ。
「してみせるさ! おれはなんてったって、天下の大どろぼうなんだからよ!」
 屈託のない笑顔は、純粋な己への信頼に満ち溢れている。
「……」
 ロビンはオレンジの最後の一口を放り投げ、口でキャッチする。もぐもぐと頬が動く様をイノセンスは怪訝そうに見た。

 ロビンにとって、困難はご褒美だ。乗り越える柵が多ければ多いほど、走るのは楽しい。パワーアップしたアビリティをどう乗りこなすか。この課題はロビンをワクワクさせる。
 だが、暴走は自分だけの問題ではない。ジウが暴走したら? ヒガンが暴走したら? 止めるのには大分骨が折れそうだ。
 しかし、興味もあった。二人はどのような欲望を見せるのだろう。

 イノセンスは漂う。相変わらず、重みを感じさせない体だ。宛もなく、街の風景を眺めるわけでもない。
「まだ聞きたいことがあるんだけどさ」
「ええ、どうぞ」
 ロビンを視界には入れずに返事をする。
「マルアハが起動する条件はあるのか? いままでは20年だか30年だかくらいのサイクルで起動していたろ。それが今回は別だ。目覚めるのが早すぎる」
 観測所もマルアハの起動を予測できていなかった。今回、マルアハが動いたのは全くのイレギュラーだ。加えて、通常彼らは7体一斉に起動する。しかし、今回は1体のみが動き出した。

「彼らは、自らの脅威になりうるレベルの魔力に反応します」
「……ああ、そういうことか。おれ達は魔力を貯めてるんだから」
 人よりも魔力を貯める性質のあるナナツミがあれらに接近したならば、もちろんセンサーに引っかかってしまう。

「センサーに引っかかるとしたら、ナナツミ3人分くらいなのか?」
 ロビンはマルアハのすぐそばに住んでいた。ロビン一人の状態ではマルアハが動くことはなかった。
「マルアハを吸収したナナツミなら、その1人でも動く可能性はあります。……詳しいことは分からないのです」
 彼女は少しだけ俯いた。長い髪が顔を隠して、その表情は窺えない。

「なんでも博士というわけじゃないんだな」
「ええ。あるのは少量の情報です」
 イノセンスはずっとひとりで世界の脅威と向き合ってきたのだろう。たったひとりで、きっと何千年も。
 ロビンは彼女の表情を伺おうとしたが、青い髪がそれを隠していた。

 いくらか歩いて、大きな空き地に出た。そこには銃がたくさん並べられている。新聞が宙で固定されていて歩きにくい。ロビンは邪魔くさい虫を払うように、手でそれを退けながら歩く。

「イノセンスはさ、いつもどこにいるんだ?」
「たましいの海のなかに」
「たましいの海?」
 ロビンにその魔術学用語は分からなかった。

「地中を流れる魔力の中に私はいます。肉体を持たない私は、どうしてもそこに縛られてしまう」
「首切りにきたじゃん」
「あれは、魔力で作った依代です。長い時間、あれに縋っているとどうしても疲弊してしまう。常時上の世界にはいられない」
「んじゃ、夢の世界に来れてるのはなんで?」
「夢の世界というのは、たましいの海と接続しやすいのです。夢は、人の魂が見せるものだから」
「へえ〜。なんだか、よく分かんねーや!」
 ロビンは新聞をぐしゃぐしゃと丸めて、広場のそばの民家の空いている窓に向かって放り投げた。

 イノセンスはほのかに視線を逸らす。そしてまた、ロビンを青い目で捉え直した。
「時間が迫っています」
「マジか。じゃあ、あとひとつだけ」
 イノセンスと自分との間に浮く新聞を、手で退かした。

「お前の、マルアハを倒したい理由はなんだ」
 ロビンは青をまっすぐと見据えた。イノセンスは何も言わずに視線だけを向けている。
 ほのかに、口を開いた。
「救うため、ただそれだけです」

 誰を、何を? と問いかけるより前に、彼女の身体が、青い光に分解されていく。きらきらと、夢の空間から散っていく。
 空間の稜線が歪む。なんだかんだと、夢の覚める時間でもあるらしい。ぼやけていく空間にロビンは身を任せる。そのなかで思考を回していた。
 マルアハの魔力をも吸収する、食いしん坊の果実ナナツミ。それは、一気に膨大な魔力を吸収すると暴走する危険性がある。マルアハは膨大な魔力をセンサーで察知し動き出す。たましいの海に住むイノセンス……。

 イノセンスは何者だ? あれは肉で造られたものではない。
 彼女は何を欲しているのだろう。 なぜ、何千年も何千年も、人のために種を撒いた。
 救うため、救うため。そのとき、細めた彼女の目の中には苦々しいものがあった気がする。
 闇が広がっている。大きな穴を覗いている。その中に、もっと何かが隠されている気がする。
 
 残るマルアハは6体。大どろぼうの次のターゲットは頭上彼らの、青い光輪だ。

     ◇

 青いタイル、排水溝。泡が渦を描きその中へ吸い込まれていく。
 足の豆が痛む。サンダルで走り回ってしまったからだ。靴箱の奥にしまったスニーカーを取り出さなくては、と目を閉じた。生きて帰れたなら、次は一度家に寄りたい。
 戦いの恐怖はある。死んでしまうかもしれない。
 だが、死の恐れと同等の恐怖がヒガンを支配している。

 濡れた髪が肌に絡みつく。かつて、真っ白だったヒガンの髪の毛は、ナナツミの発現により紫色に染まった。
 鏡から目を逸らす。蘇る過去をかき消そうとする。自分の髪色も、アビリティも、過去の罪を突きつけるものだ。
 最近は特に思い出す。あの赤い断面のせいだ。グロテスクな、成人男性の断面図。かつて見たことのあるもの。
 温水を浴びているはずなのに、手足は氷のように冷えている。

 自分の本性を見られたくない。衝動を耐えて、耐えて、耐えてきた。だが、二人と出会ってから更に、胸の奥の衝動は強く脈打っていた。見られたくない。

 見られたくない?
 赤い断面図に囲まれて、「兄」は私だけを見ていた。私は「兄」だけを見ていた。
 ふたりだけだったあのときは、確かに満たされていた。

 ヒガンはシャワーの栓を閉めた。そして、そのまま嘔吐した。

     ◇

 スタンドライトの明かりがベッドを照らしている。
 ミルク色のかけ布団が、ふたつの山脈を作っている。山脈の終わり、ライトの光が照らすほうに豊かな茶髪と、光を灯す金色の髪が寄り添う。

「ねえっ」
 整えられた手が、ぐわと金色の髪を引っ張った。

「痛えッ!」
「うなされてるから起こしてあげたんだよ。君、呻いてたんだから」
「だからって髪引っ張るやつがいるかよ!」
 霞む視界のまま、彼は引っ張られた頭を揉む。
「ねえ、ベネディクティンって誰?」
 意識は瞬時に覚醒する。
「……」
「さっき呻いてたんだけど、誰?」

 長い睫毛にすました顔。クールな美貌が彼の武器だ。目を伏せ、一番の表情を作る。そして、そのままそろり、そろりとベッド脇に落ちているパンツを掴んだ。
 茶髪は思わず仰反り、大声で笑い出した。
「アハハ! 追い出したりしないよ! そういうんじゃないじゃん」
「クソ、ビビり損だ」
「えっ、追い出されたことあるの?」
「そうだよ。そんとき、俺は放り出されて全裸で街を歩いたぜ」
 彼はパンツを放り投げ、ごろんと大の字に寝転がり直した。

「ベネディクティンは、俺が探しているヒトの名だ」
「男? 女?」
「分からん」
「分からないの?」
「上手く思い出せねえんだ」
 青年は体を寄せる。柔らかい肌の感触と体温に目を細める。
「記憶喪失ってやつ?」
「そうそう」

「覚えてるかぎりで、どんな人?」
 それは何度も掘り起こした記憶だ。
「……メガネをかけてる。太ももが厚くて、よく膝枕してくれた。声色はとても暖かかった」
「抽象的すぎて分かんないな。写真とかないの?」
「ない。俺の頭の中にしかいない」
「それって君の妄想なんじゃない?」
 茶髪は青年の髪に指を入れ、刈り上げを指の腹で撫でる。
「いいや、実感はある。あいつは“いる”。どこかに隠れている」
「じゃあ、どうやって探すの」

「暴くのさ。お前らの本当の姿を」

 茶髪は笑った。
「本当の姿って、一晩で分かるもの?」
「分かるよ」
「私は?」
「違かった」
「残念だね」
「お前は、ただエンドグラウンドにフィールドワークしに来た学生ってだけだ」
「……」
 吐息のぶつかる至近距離、青年は眠たげに、茶髪の大きく開かれた目を、その奥を見つめる。

「論文のいいアイデアは昨日得られた。だけど、帰るのは憂鬱。束縛してくるパートナーと離れたい。そいつは乱暴だし、口が臭い。今、ここにいる方が楽なんだ」
 茶髪は体を起こす。
「……私、そんなこと言ったっけ」
「さっき教えてもらった」
 目を細めた彼は懐いた動物のような甘さを醸し出している。だが、茶髪はゆったりとした気分からはすでに離れていた。
「やけに頭ぼんやりしてると思った。薬? 違法魔術?」
「どっちも違う」
「君、これみんなにやってるの」

「ああ。隠し事なんて肩が凝るんだ。だから、一晩だけそれを暴露しちまえば、サイコーに気持ちいいだろ?」
「……」
 当たり前だと言わんばかりに、青年は首を傾げた。
 一晩限りの関係であれど、茶髪は本能的に、彼が本気でそう思っていることを察した。
 彼はちょっとした善意で、人の秘密を暴くのだ。
 茶髪はなんだか馬鹿らしくなった。狐に化かされた気分ともいえよう。彼のやっていることについて、ガミガミ言える間柄ではない。ボスンと再び枕に頭を沈める。

「…気持ちよくなかったか?」
 青年は心配そうに覗き込む。天井を見上げたまま答える。
「……いや。君、いつかそれが理由で刺されそうだなって」
「逃げ足に自信はある」
「んじゃ、今試しにやってみようかなあ!」
「それはやめてほしい」
 
 茶髪は少しだけ、顔を青年に傾けた。
「じゃあ、せめて君の名前を教えてよ。君の秘密を少しくらいは握らないとね」
「秘密っぽい秘密は、さっき言っちゃったしな。いいよ」
 青年は目にかかった長い前髪を指ではらう。

「俺はキルシュ、キルシュだ。また会えたときにでも、呼びかけてくれ」
 青い目が印象的だった。