第二話 血に名を交わす

その壱




 死を考えるより先に、願いが体を動かした。
 あのとき、こうやってかけるに手を伸ばせていたらよかった。
 もう一度、誰かの死を実感してしまったら、私の中の何かは砕ける。つまるところ、私はもう二度と、とてつもない悲しみにめった刺しにされたくなかっただけだった。

「…………」

 滝だろうか、水の落ちる音がする。
 それは遠くの、そこかしこから聞こえている。

 目に入ってくるのは暗闇だけだった。
 私は地べたに仰向けで倒れている。石畳のような冷たさを背中から感じる。
 体が動かない。
 硬さを保っていた地面が、ぐにゃりと歪んだ。体が少しずつ沈み始める。
 ここは私が生きていた世界じゃない。多分、もう終わったんだろうなと思った。
 
 意識がぼやけていく。

 …………。

 このまま、地面の中に落ちたらどうなるんだろう。
 下にかけるや、お母さんがいたりするんだろうか。想像しようにも、上手く頭が働かない。思考の焦点がぼやける。紐を集めたいのに、勝手にばらけてまとまらない。
 どうして私はここにいるんだろう。
 今まで、何があったっけ。後ろを振り向いたら、足跡ごと道がなくなっている。かける、お母さん……。なんだか、変だ。二人のこと、うまく思い出せない。
 世界が急速に閉じている。私以外の登場人物が去っていく。私を構成する部品が落ちていく。次第に、私というのも、よく、わからなくなってきた。
 私は……。

「あか――」

 遠くから声がする。

「あかね――」

 名前が聞こえる。

 名前、あれは名前。そうだ。私の名前だ。

 私を呼ぶ声がする。瞼を上げる。返事をしなければならない。

「誰……?」

 口から出た声は思ったより消えそうで、自分の声じゃないみたいだった。

「日髙 あかね――!」

 やっぱり、私を呼んでいる。聞き覚えのない、男性の声。

 ――改めて、状況を確認する。
 今いるここは、真っ暗などこか。さっきあったこと……空から落ちてきた誰かに衝突して、えらいことになったんだった。でも、痛みは感じない。
 ただし、体の厚み半分くらい地面に埋もれている。感覚的に分かる。背中から両足、両腕が沈んでいるし、今もなお、少しずつ引きずり込まれているようだ。私は身じろぎをする。
 全然出られる気配がない。

 ……気力メーターは約20%で、そろそろ充電したい頃合いだ。
 これ、沈み切ったらどうなるんだろう。多分、ろくなことにはならない。想像してゾッとする。

 どうしよう。このままじゃヤバいんじゃないか。ようやく、そう思った。


「どこだ、返事しろーー!!」

 声が近づいている。

 私は地面の中の上半身をなんとか起こす。沈もうとする力に抗う。
 返事をしないと。今度は届くように、肺に息を溜める。胸が重い。重みに抗って、どうにか声を出す。

「あなたは、誰――?」

 見上げた天で、ごう、と炎が上がった。
 私は瞼を押し開く。

 燃えて、消えた炎の跡に一人の男が立っていた。
 空中で体を大の字にして浮いている。
 ああ、でも、彼は人じゃない。だって、左の背中から、黒い羽が生えているから。
(さっき落ちてきた――)

「我が名は、ソクヒテンショウダイク! ――探したぞ、日髙あかねっ!!」

 声は、水の音をかき消して轟く。
 彼は翼を畳み落下する。オレンジ色のざくざくした髪の毛が上になびく。足が火を纏い、着地した。
 彼はどうしてか沈まない。あの赤い炎がそうしているのかもしれない。ソクヒ……はどすどすどす、と音はしないけど、そう聞こえる歩き方でこっちにやってくる。

 持ち上げた上半身を保てず、私はもう口元近くまで沈んでいた。
 傍に来た、背の高い彼を見上げて、目を細める。
 ソクヒ……はしゃがんで、ずいと私の顔を覗き込んだ。
 黒い嘴を象ったお面が顔の側面を覆っていて、片方だけ、赤色の目が露になっている。ああ、やっぱり人じゃない、と感じた。自分に近い生き物だと、そういう風には思えない。

「……私、死ぬんですか」
「アホ! 気を強く持て。お前、キヨコ・・・の孫なんだろ」
「え」
 キヨコは、私のおばあちゃんの名前だ。

「ふんっ!」
 私の困惑をよそに、彼はばんと地面に腕を突っ込んだ。地面はどぷんと、まるで水になったみたいに、その腕を受け入れた。
 彼は、川の中の魚を捕まえるみたいに私の左腕を掴んで、そのまま私ごとぐっと地面の上に引っ張り上げた。

「っ――」

 上半身が地中から離れて、私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。彼は言った。

「エニシホムラよ」

 火が私の腕に宿る。

「えっ――」

 赤色の火が、腕に絡んでぼうぼう燃える。
 私はとっさに炎から逃れようとした。一体どうして、こんなことを。
 だけど。いや、おかしい。
 熱くない。痛くない。

「守りの火だ。そう怯えるな」
 その火はぬくいくらいだった。守り、というのは正直よく分からないけれど、腕はグリルのサンマになっていない。
 黒焦げにならず済んだ安心よりも、困惑が断然勝っている。
 なんだか、訳が分からないことばかり起きている。

「あなたは、神様? それとも妖怪?」
 私はこう聞くのがせいぜいだった。彼は目を丸くして、それから笑う。
「はははははは!! 神様か、そっちでも良いぞ?」
「じゃあ、妖怪なのか」
おれは大天狗だ。それも飛び抜けて偉大で、超絶強い、大大大大天狗なのだ!」
「大大大大天狗、そうか」
「おい、三つの大は誇張だ、誇張」
 私は少し恥ずかしくなった。

「ここはどこなんですか」
「魂が生まれ出て、また解ける場所だ。たましいの海というヤツもいる」
「……私って、解ける方になりかけてた?」
「そうだ。ちなみにまだ、な」

 がくん、と彼はバランスを片方に崩す。火に包まれた左足が地面に取り込まれていた。
 彼は私の腕を握り直す。私の左手はされるがままで、ぶらんと項垂れている。
「見ろ、お互い死にかけだ」

 この大天狗は、間違いなく、さっき空から落ちてきた人だ。
 火を噴く黒い塊――彼は私と激突して、落下の衝撃の何が軽減された訳でもなく、死の淵まで落っこちてきてしまったんだ。

「脱出するぞ。力を貸しな」
「私、なにかできるの?」
「血結いをする」
「血結い、って?」

「妖怪どもが、己の存在を補強するためにする儀式だ。やれば、おれの妖力がちっとは戻る。それで、お前の肉体を直せるのだ。いいか、やることは二つ」

 黒手袋の人差し指が立つ。
「一つ目、互いの血を体内に入れる。ま、これは現でぐっちゃんぐっちゃん混ざってるからヨシ! で、二つ目」
 ご丁寧に起き上がる中指。
「儀式の言葉を言う。これを今からやるんだ」

「言うだけでいいの?」
「おうさ。お前はセリフを言うだけ。うん。怖いことは何もない。こんなにカンタンな契約はないぞ!」
 変なことを言わないでほしい。頼んでもいない怪しさが追加注文されている。
 というか、今からやるのは命のかかった儀式だから、そこそこのそれっぽさが必要なのかな、と私は思っていて。懸念事項が一つ。

「私、えげつない棒読みになるよ」
 教科書の朗読や中学のクラス劇で、それは充分に証明されている。ロボっぽいロボの方が千倍上手い、と友だちにも言われる。
「ふっ、そりゃあ、ふはははは」
「それでも、ちゃんと儀式って成功する?」
 私は真面目に聞いている。大天狗はウケている。
「まあ、大事なのは魂の引力だ。出力がアッホアホでも、この縁うんと強く結びたまへという強い気持ちがあれば良いのだ。選手宣誓のようにやればいい」
「選手宣誓って、右手上げてやるやつ?」
「そうだ、校長先生の前でやるやつ」
 変だ。やけにこの大天狗は現代に詳しい。

「お前は、妖怪やらあやかしを見たことはあるか?」
 大天狗は改めて聞く。
「ない。弟は見れたけど、私は見えなかった」
 彼は眉を僅かに上げた。
「ならば、この儀式を経て、お前は、やつらを見るようになる」
「えっ」
「そして、おれの血を嗅ぎつけたあやかし共に、命を狙われるようになるだろう」

 大天狗は寸分も目を逸らさず、私に告げる。
 人のものではない、鮮やかな赤い色。

おれには帰らんとならん場所がある。お前がイヤでも、怪しんでいても、恐ろしかろうが、協力してもらう」
 彼は、くるぶしの上くらいまで足を沈めていた。だけど、腕を握る力は揺るがない。
「いいな?」

「うん。やろう」
 もう、答えは決まっている。

 私は、今日初めて妖怪と話した。正直血結びとか妖力とか、全然分からないけど。
 ついでに、かけるから「妖怪には関わるな」と強く言われていたけど。
 あれは人間と違う理屈で動いている。どんなに気さくでも、仲良くなれるものじゃない、って。
 元の世界に戻ったら、この大天狗だって手の平を返すかもしれない。「引っかかったな人間め! お前を食って、おれはモリモリ元気になってやるぜ!」

 私がこれからどうなるかなんて――それは契約してからじゃないと始まらない話だ。

 それに、私には、願ってもないことなんだ。
 見えれば、あやかしが寄ってくるなら、かけるの死に関係するやつを探すことができるから。

「やるから、戦い方を教えて」
 これはチャンスだ。

 大天狗は瞼を持ち上げる。ぎらりと、赤色の瞳が私を捉えた。
「いいだろう、教えてやる。妖鬼跋扈を蹴散らす術を!」

 私は項垂れていた左手で、彼の右腕を握り返した。

「私を食べないでね」
「食べるかっ!! そりゃ下級共のやることだ。おれを何だと思ってる」
「大大大大大天狗」
 私がそう言うと、彼は歯を見せて笑った。

「ホムラ、覆え!」

 大天狗は、畳んでいた片翼を広げる。
 炎が私たちを包む。それは、外の世界と私たちの区切りを明確にする。

「儀式の言葉を教えて」
「火に乗せた。読んでみろ!」

 私は目を閉じた。
 握った手から、火の熱が腕から首へ登ってくる。
 そして、頭の中に、言葉が浮かんだ。これか、選手宣誓のセリフ。
 私はまだ死ねない。だから、力を貸してほしい――そんな気持ちに薪をくべて、燃え盛る炎を生み出すんだ。
 ぐっと、彼の腕を強く握った。

「橋を渡せ。夕刻の座にて杯を交わす。私は汝の名を刻む。速日天翔大狗よ」

「橋を渡せ。夕刻の座にて杯を交わす。おれは汝の名を刻む。日髙あかねよ」

 声の波紋が交差する。

 そのとき、私たちの中に何か大きな変化が起こった。
 大きな変化っていうのは、私たちが一体化して、お互いくっついた透明な花瓶みたいになった、みたいな。
 そこに何が入っているのか見えて、水が混ざっていくんだ。
 花瓶に溜められた、断片的な記憶が、感情が、衝動が、風に飛んでいく写真みたいに私に入って、一瞬で去っていく。
 火、都、宇宙、鳥居、山、つがい、子、泥――

「足を取られるな、日髙あかね!!」
「わ、かっ――」

 私の花瓶に入っているものを確かめた。
 剣道の鍛錬。ご飯を食べながら3人でクイズ番組を見ていた夜。友だちに勧められるまま流行りのSNSを始めたこと。海が楽しみだった夕方の帰り道。空っぽの橋の下。

「火を受け取れ!!」

 悲しみが私に追いつく前に、速日天翔大狗はそう言って私の腕を握った。
 熱い。特に、握られている腕が。焼けた鉄を押し付けられたみたいだ。歯を食いしばる。私の内側で、火が燃え広がっていく。受け取るんだ。自分のものにする。私は彼の右腕を強く握る。
 握って、叫ぶように目を開けた。

 包む炎が、ばん、と弾けた。

 二人の間で風が吹き上がった。
 私は、下半身を包んでいた冷たさが消えたのを感じた。全身が熱い。
 じゃあここはどこだ? 地面の上でも中でもない。
 ああ、そうか。弾けた衝撃で、私は宙に放り投げられたんだ。
 
「よおし、よしよしよしよし!! 来た来た来た来たァッーー!!」

 速日天翔大狗の咆哮が暗闇に轟く。

 大きな片翼が一度、二度、と宙を叩く。
 彼は掴んだままの私を引っ張りあげて、勢いそのままに、手を離した。

「なっ――」

 放り投げられた。これは、落ちる。重力と、上向きの風を明確に感じた。
 だけど、すぐに下向きのベクトルは消えた。
 大天狗が落ちる私をキャッチした。そして、小脇に抱える。翼がある側の脇に。

「飛ぶぞ!」

 宣言通り、片翼が宙を殴りつける。私たちは上に吹っ飛んだ。

 軌道はジグザグを描く。猛スピードが私の体を叩いていく。上下左右にシャカシャカ、マラカスになったみたいだ。肉体があれば、中身を出しているだろう。快適な空の旅とは程遠い。でも、大天狗は私をがっしり抱えていたから、もう落ちることはない、はずだ。

 大天狗は試行段階を経て、段々と片翼飛行術のコツを掴んでいく。大ぶりのジグザグは、だんだんその幅を狭めていく。
 そして、加速する。

「"ホムラ"、来い!」

 私たちを炎が包む。押さえつけられるような下向きの力が軽減された。彼の言った、守りの火だろう。痛くない。
 暗闇に赤い炎が登っていく。打ち上げ花火みたいだ。
 私は、思わぬ形でスピードを手にした。ここじゃないどこかへ飛んでいける、ものすごいスピードを。

「見な、出口だ!」

 光が瞼を叩いて、私は頭をもたげた。大天狗の向かう先に闇は消えていた。
 ここに光はあったんだ。底には届いていなかっただけで。

「あそこを突き破れば現へ帰れる。だが、覚悟しな。さっそく実践訓練といくぜ」
「妖怪が来てる?」
「いや、あやかしがいるだろう。死にかけの大天狗なんか、そりゃあお得でおいしいエサなのさ」
「分かった。よろしく。速日……」
「長い! 天だ! 天と呼べ!」
「じゃあ天さん。……自分で長いって言っていいの?」
「10文字だぞ!? 普段から言ってられっか!! 自己紹介と、ここぞというときだけ使えばいいんだ!」
 天さんはせっかちだ。

 私たちは白光に突っ込んでいく。あまりの光で、私は目を閉じた。