その弐
八月。
足交町は最高気温38.0度を記録して、西日が強く残っていた。
放課後で、多くの生徒はそれぞれの部活の拠点に向かっている。制服と体育着が入り混じる時間だった。
視界の背景で会話の花がまばらに咲いているのを、私は傍観して通り過ぎる。
赤色のクロスバイクは、自転車置き場の隅に置いてある。
弁当の入った保冷バッグを小さなカゴに押し込む。スカートのポケットに入れた鍵を差し込み回す。
正門を出てからサドルにまたがり、ペダルを漕ぎ出す。
学校とその外を分ける歩道の柵越しに、体育館横の剣道場から掛け声が聞こえた。立花の声は、高くてよく通る。馬が合うわけじゃないけど、私の休部を最後まで引き止めたやつ。部活は一年前から休んでいる。
本当は退部するつもりだった。前みたいに力を入れられる気がしないから、きっぱりやめようと思っていた。
私は小さいころから剣道を習っていて、それなりの大会にも出させてもらっていて、なんというか、私にとって剣道は手を抜いてできることじゃなくなっていた。私は器用からかけ離れた性格で、0か100しかやれない。だけど、最終的には顧問を始め、いろんな人が席だけでも置くよう勧めてくれたのもあって、休部にした。
一年か。
かけるが亡くなって、もう一年が経った。
自動化した体がペダルを漕いでいて、道路端の青い矢印を進んでいる。
海に行く予定だった、あの日の朝。私とお父さんが起きた頃、既にかけるはいなくなっていた。
すぐに、警察から連絡が入った。
かけるの遺体が家から15分歩いたところの橋の下で発見された、という内容を、私は父の言葉で聞いた。
警察は自殺と結論を出した。
絶対そんなわけがない。あの日は海にいくはずだった。
かけるはこれ以上ないくらい海を楽しみにしていて、それは絶対に嘘じゃなかった。橋から飛び降りようなんて、絶対思っていなかった。私は分かってる。
でも、それだけじゃ、警察の答えをひっくり返すことは出来ない。
自殺じゃないと分かる証拠はひとつも見つからなかった。かけるの部屋を探した。かけるがよく行く空地を探した。黄色いテープが外された後に、あの河川敷にも行ってみた……。私が探したところで、何もなかった。
かけるの持ち物だって、片っ端から漁った。日記なんて書いていなかったようだし、部屋に置きっぱなしだった黒のケータイにも、手がかりらしい手がかりはなかった。
ああ。だけど、現代文のノートに、鳥のらくがきがあったな。
線がきれいで、それがなぜか目に張り付いている。何かメッセージが込められていたのか、ただの手慰みだったのか、今となっては分からない。多分、ただ暇で書いただけだろうけど。
かけるが授業中にらくがきする様子を私は難なく想像できる。今も、ここで生きているように。
信号が青になっていたから、私は横断歩道を渡った。
細い市道に入る。道の傍らには新しいアパートが作られている。
街は少しずつ形を変えている。家の近所のコンビニは潰れて、近いうちにコインランドリーになるらしい。
あの日、かけるはどうして、あそこに行ったんだろう。皆が寝静まった夜中、それか、朝日が昇る前。
昔みたいだ。小学生の頃に、かけるは夜遅く一人で散歩する癖があったから。
それでパトカーに見つかって、お父さんが深夜遅く、警察署へ迎えに行っていた。
私は、出かける理由を聞いたことがある。
かけるは「散歩」とだけ言った。夜の散歩の内容を聞かせてくれなかった。いつもはぐらかした。
でも、裏を返せば、それは私に言いたくないことで――つまり、あやかし絡みのことだ、と予想できた。
多分、かけるはあやかしに会いに行っていたんだと思う。
私たち家族の中で、かけるだけがあやかしを見ることができた。
私は確信している。
かけるはあやかしに会いに行って、そいつに橋から落とされて、きっと、魂を食べられたんだ。
絶対にそうだ。
かけるの髪が真っ白になったのもあやかしに食べられかけたからで。今度は、本当に食べられたんだ。
私は確信している。
……だけど。
私にも見えないものを、誰なら信じてくれるんだろう。
坂道を立ち漕ぎで凌いで、道は平坦に戻る。
私はサドルに座り直す。疲労した体に酸素を取り込む。灼熱の湿気が体の中に溜まって、体が少しずつ重くなっていく。
もう5分くらいで家に着くだろう。神社を覆う木々が見えた。
火宣神社と言う。今は、私のお父さんが市役所の仕事をしつつ、宮司を勤めている。
鳥居の向こう、境内はほとんど日陰になっていた。
私は自転車を降りて、それを見た。
やっぱりそこにもかけるがいたんだった。拝殿前の階段に腰かけて、どこかを見つめている。
蝉が鳴いている。汗が服の下を流れている。
強い日差しが、道に濃い黒色の影を生んでいる。
鍋の中みたいな、街いっぱいを満たす暑さが私の脳みそをどろどろにする。なのに、体は首から黒ずんだ鉛に変化していく。
「だめだ」
あんがい無機質な声で、私は呟いていた。
駄目って何がというと、何もかもが駄目だった。
帰れない。
例えば、玄関にない26cmの黒いスニーカーとか、ドア開けっぱなしの私の隣の部屋だとか、数の減った洗濯物とか、冷蔵庫の中に暫くコーラが入っていないこととかが。
一年間ずっとそうだったのに、もうだめだ、と思った。
たまらなくどこかに行きたい。この街の外、どこか遠いところに行きたい。この街はどこだってかけるがいる。
私は車を運転できない。お母さんのオレンジ色の軽自動車は市役所の駐車場にあるだろう。手持ち、私に許された速度はこのクロスバイクだけだ。
なら、駅まで行って電車を見るとか。二両編成の黄色の車両は街を下って、海近くの終点に行くという。終点に着けば電車は止まる。そこから海に行ったって、望むことは何一つ叶わないのに。それなら止まらないでいい。ずっと遠くへ。今の私は立ったまま動けないのに。
私は、私をずっと遥か遠くに投げるような、とてつもない速さが欲しかった。
例えば。
今、私に迫りくる物体と同じくらいの速さが。
「――!」
思案の海から、意識が現実に引き戻される。飛行機が風を裂くような音がした。
上から、蝉の声をかき消して私に近づいてくる。
空を見た。
「あ――」
火を噴く、黒い塊だった。
カラスのような羽が黒団子の中から出ている。でもカラスじゃない、カラスはこんなに大きくない。
1秒よりも速いスピードでそれは迫ってくる。
塊の中で、手足が藻掻いていた。橙の長い頭髪が空に登り、うねっている。
あれは、背から羽が生えたかたちの、人だ。
自転車を脇にはっ倒したとき、右足はもう前方に飛び出していた。不思議と世界がスローモーションで動いている。
剣道で育んだ瞬発力が体を前に弾き出した。どうして? あの人の落下地点が、多分私のちょっと前だから。泥の隙間に見えた赤い目はぎょっとする。
翼を持つ人が人であるはずがない。じゃあ、あの人がかけるの言うあやかしかもしれない。でも、私はあやかしを見ることはできない。そもそも、私は何をどうするつもりだったんだ。
飛び出す前、瞬間的に過ったのは、やっぱりかけるのことだった。橋から落ちて死んだ私の片方。
だから、私は地面を蹴って、両腕を前へ伸ばした――
結論を先に言えば、私の渾身のスライディングは間に合った。
だけどそれが意味することは、上空から落ちる物体の下敷きになった、ということで。
こんなスローモーション、私の頭の幻覚で、現実、すごい速さであの人は落っこちていたし、人は案外重い。大きな翼があれば尚更。
そりゃそうだ。
痛みが頭をぶん殴る前に、私の体はひしゃげて、圧し潰された。
あの赤色は炎だったか、私の血だったか、もう分からない。