第一話 落ちた烏を受け止める
その壱
「"ホムラ"あ、来いッ!」
最初に、双翼に火が宿った。
ぐん、と真横に広げた翼が、宙を三度叩く。
加速して、更に時を超え進んだ。
妖力を羽先一枚一枚にまで行き渡らせると、両翼は暗色の赤色から炎の燃えたつ色に変化した。一族で異端とされようと、彼は自らの羽色を気に入っている。
大天狗はその身に炎をまとい、時空の狭間を翔ける。
羽ばたき、羽ばたき、光を置き去りにして飛ぶ。
向かい風の抵抗を裂く。
両翼に漲る、幾つもの大海を満たすような妖力を、思う存分燃やした。
充分なスピードに到達すれば、羽ばたきを止め、その翼を平行に伸ばす。
生み出した速度をはらんで滑空した。
宙を翔けるのは気持ちがいい。
自分の妖力をぞんぶんに燃やして、体いっぱいを使い、速さを、更なる速さを求める。
全てを置き去りにする。思考の余分が削ぎ落されて、身軽になる。
原始的な喜びがある。
ひたすら前へ、前へ。今じゃない場所に。
異次元は夜の空の趣きで、星のような光が線を書き、彼の背に流れていく。
きっと己も、闇を掛ける火に見えているだろう。
この炎は、いちばんに輝いているはずだ。大天狗はそう思って疑わない。
彼は練り上げてきた力を、自分自身を誇っている。己こそ、大天狗の内でも特に優れた戦士だと、当然に思っている。
そういう性格だった。
「おう危ねえ、ここらだぞ」
彼はひとたび大きく羽ばたいて、翼に宿る火を消した。
妖力を抑える。羽の鮮やかな赤色も、それに伴うように暗色に和らいだ。
行く場所があった。急いでいるわけではない。
彼の"つがい"と、子どもたちが食べたいと言った、今日のおやつの買い出しだ。
(あれがなかなか美味いのだ)
目的地は室町の日本。都に店を構えた、波ノ屋という団子屋だ。
蜜がたっぷりと掛かった団子がウリで、大天狗曰く「美味の大山がそびえ立つ」らしい。
"つがい"は人を嫌うが、人の食べ物は好きだ。
そして、兄、弟、妹の小さな三兄弟も、甘いものは無限に食べる。
時空間を飛ぶことができるのは目下この大天狗だけで、彼はさまざまな地の美味しいものを食べては巣に持ち帰り共有している。
大天狗は滑空し、辺りを見回す。
室町の日本に繋がる"門"を探した。
この異次元から、目当ての時代、場所へ飛び込むには門を潜る必要がある。
門といえど、それは自然に空いた穴のようなものだった。
彼は、よく行く場所を繋ぐ門にしるしを付けていた。傍から見ても分かりやすい。炎で穴の周りを囲っているのだ。
ちょうど、彼は一つ"印"を見つけ、近づいた。
小窓を覗くように、炎の輪の向こうを見る。
「違えわ。マンモスが歩いてら」
大天狗は古代の門に背を向け去った。
翼をぶおん、ぶおんと羽ばたかせ、再び宙を飛ぶ。
目に入る印付きの門を片っ端から覗いていく。一瞬の観光だ。
印と言っても火でマークアップしているだけで、それがどこの場所に当たるか記してはいないのだ。この異空間に、この火の他に目印らしい目印もない。
大天狗は、今度時間があるときに、表札を取り付けることができるか試してみようと考えている。
(我ながら、のんびりした奴になっちまったな)
そういう自分も嫌いではないが。
ここ数百年は、穏やかに時間が流れていた。
彼を追放した一族との戦いも、もう若い時分の話だ。大きな戦に身を投じることは、ほぼなくなった。
昔は、あらゆる形の妖怪が、大天狗の悪名を聞きつけ勝負を仕掛けてきたものだ。今はそういったことも少ない。
小競り合いに暮れる日々は既に過ぎ去っていた。血気盛んな青年時代と比べれば、今は大分落ち着いた気がする。
帰る家を作ったことも大きいだろう。共に暮らす者ができた。
それに、彼を慕い、教えを乞う後続も現れた。
安定した日々が続いている。
「おい! こいつはでっかい古墳じゃねえか」
だから、気がつかなかった。
鈍っていた。
ここ、狭間に異物が入り込むことはあった。
門を見つけ、入り込んでしまうあやかしが、ときたま人がいた。
だが、この空間で動く方法など皆知らぬから、奈落の底へ落ち、生命の火を消すのが常。
ぐちゃ。
「奈良の都だ! よおし、近づいて来たぞ」
この異空間を駆ける者どもも、ここで戦を起こすことはなかった。
少なくとも、彼の知っている大天狗の一族はみな、ここでの戦を禁じている。
ぐちゃ。
ならば、誰がここで、騒ぎを起こすことができるだろう?
見逃していた。見もしなかった。考えもしない。
それは明確な隙だった。
片翼で、ぐちゃり、と音がした。
「――っ!?」
ぐうん、と翼の片方が下方へ引っ張られる。
即座に火を纏い、振り向く。異変を宿す片翼を見る。
瞼を押し開いた。
――ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
それは蠢いている。
片翼に、黒々とした泥が絡みついて、悶えていた。
いっそ、蛆の集合体のようでもあった。
炎の赤色を照り返さない漆黒。
それは、ずる、ずると動いて、一枚、また一枚と、羽根を飲み込んでいく。
「何奴!」
大天狗は翼に火をごうと焚いた。このまま泥を焼却する。
燃える。炎の中で泥が踊った。
くゆり、消え、燃えかすが落ちる。
だが、また湧いて出る。噴き出す。そして、翼に絡みついていく。
量が減らない。
おぞましい臭いがする。呪いと、死んで腐った死体の臭い。
「くそっ」
彼は体を振り回した。前方へ飛翔し身を回す。
塊の少しが飛ばされる。泥の大半は、翼にしがみつき離れない。
蠢きながら、肩に向かい登る。
泥は毒のようであった。チリ、という小さな痛みを与える。
そして、次には痛覚を消した。
痛みはゆっくりと羽先からその上に侵食する。同時に、感覚を麻痺させていく。
無感覚の陣地がじわり、じわりと広がっていく。
いったい何が起きている? 気色が悪い。
蝕まれている。侵食している。なにか、体を作り変えられているような。
「――"駆け龍"!」
詠唱と共に、大天狗は火球となり加速した。
しかし、軌道がぶれる。翼は普段のように動かない。感覚がなく、目視でなければ状態が分からない。しかし、振り向く暇はない。分かるのは、右肩に普段以上の重量がかかっていることだけ。どうしても体が右に落ちる。
スピード、スピード。光を追い越す速さで飛べたなら、こんな泥など拭うことができたろうに。飛ぶよりも、藻掻き、溺れているような心地だった。最悪の気分。
何だ? これは一体何者だ?
「貴様、名を名乗れ!!」
大天狗の轟きの一声に、泥は返事を返さない。
もう、無感覚が肩の近くまで迫っていた。
このまま適当な宇宙空間へ飛ぶか? そんな門がこの付近にあったか? 適当な穴に入り、体勢を立て直すか――
思案を巡らせている間に、泥は右の翼の全てを覆っている。
背、首を伝い、漆黒の蛆共がその耳に這い寄り、さざめいた。
『もらうぞ』
すぐ近くで、骨を折る音がした。
蜜のたっぷり入った果実を大木からもぎ取る。
自らの血潮と、黒々とした液体が異次元を浮遊していた。
なぜ、あんなにも重かった右肩が、いまはこんなに軽いのだろう?
答え合わせのように、痛みが脳を切り裂いた。
「が、ああ、あ、ァ――!」
浮遊も叶わず落下する。
何をされた? 獲られた。何を、何を奪われた?
くそったれ。紛れもない、右に伸びる、己の片翼だ。
「手前、てめえ、テメエーー!!」
視界が揺れ、回る。痛みが頭で暴れ狂っている。
泥はどこだ。いや、あれはまだ己に絡みついている。首を覆い、顔に登る気色悪い蠢き。
なら、我が片翼はどこにある?
左手で顔の蛆共を掻き払う。落ちていく底を見る。
先は、泥の溢れる小さな"門"だった。黒々とした水の湧き出る、小さな泉。
一足先に落ちていく、黒い塊があった。
獲物を抱えて巣に帰る泥だった。ぐちゃぐちゃ、と咀嚼しているかのように体が波打っている。
漆黒の隙間から、赤色の翼が見える。
(
片翼は赤色を失い、墨の色に変化していく。
そして、泥は波打ち、片割れの全てを覆った。
「
痛みの藪を掻き分け、大天狗は残された片翼で妖力を燃やした。羽を畳み、急降下の姿勢を取る。たとえ慣れぬ片翼の飛行であっても。
取り返さなくてはならない。あれは誇りだ、己を示す魂の片割れ。
スピードが足りない。足りない。足りないならば届かない。今じゃない場所には行けない。気に食わない最悪の今に追いつかれる。
手を伸ばした。届け、と祈りに近いものが、怒り交じりに脳裏を過った。
爪先にも掠らない。
大天狗は、泥の溢れる門へ落ちていく。